[アイディ翻訳塾:翻訳教育]

この疑問から発し、山岡塾と時を同じくして発足した私塾がある。私の主宰する「アイディ翻訳塾」である。「アイディ」は私の経営する産業翻訳会社であり、本来出版翻訳とは縁がない。しかし、すでに述べたように、編集者から翻訳者の紹介を求められ、新人翻訳者から仕事の斡旋を頼まれているうちに、両者の間にギャップがあることを知り、これを埋めようと、実力ある新人の発掘・育成を目的に私塾を発足させるに至った。

事務手続きを(株)アイディに委託(出版翻訳物の受託・進行管理・料金回収、そのため同社は一定のコーディネイト料を収受)し、塾長である私が訳者選定と訳文校閲を行う形で「アイディ翻訳塾」はスタートした(九十六年七月)。

設立時の方針は次のようなものだった。


1、仕事はふんだんに与えること。
2、塾生は応募者から合格率10%以内の選抜とすること。
3、ただし、塾生の一割は、試験を経ず適宜採用とすること(紹介あり、使い勝手よい、きわめて熱心、など特筆すべき理由ある者)。
4、入塾時および年一回ガイダンスをし、基本原則の確認と個別指導を行なう。
5、年一回塾生の入れ替えを行ない、成績劣悪な者、仕事をたびたび断る者、態度の悪い者は新塾生に替える。
6、塾の実験期間は三年とする。
7、定員は四〇名とし、一割が翻訳のプロとして生き残ること、半数が一冊以上の訳書を出すこと、を目指す。

塾生の選抜は、訳書を出していないことを唯一の応募資格として、朝日新聞広告、日本経済新聞記事といったメディアを通じ、また翻訳学校フェローアカデミー受講者、読売カルチャーセンター翻訳講座受講生(いずれも筆者の講座受講生)にも呼びかけ、総勢四七二名の中から行なった。

「翻訳は教えられるのか?」の大疑問に対する挑戦のはじまりである。あらかじめ三つの仮説を立てた。


1、基本原則を示せば、きわめて優秀な人はすぐ一本立ちできるだろう。
2、実践を積み重ねることで、優秀な人は世に出てくるだろう。
3、センスのない人は、いくらやってもだめだろう。

とはいえ、信念を唱えるだけなら誰でもできる。問題は、どうしたらこれらの仮説を証明できるのか。私は、徹底した現場主義・実力主義を貫くことにした。


◆翻訳の〈公理〉〈定理〉〈指針〉

現場主義というと実地を通した訓練が鍵を握るが、それと同じくらい重要なのが、ビジネスの現場にいるという意識改革だ。まず、塾生たちに対して〈翻訳の公理〉ともいうべき基本原則を示した。

〈公理〉翻訳は商品である。
 実は、この自明の理をしっかりと認識していないばかりに、せっかく実力があってもプロとして独り立ちできない人は少なくないのである。

翻訳が商品であることを認識していないと、どうしても、従来、学者先生が手がけた翻訳のように、品質にむらができたり、読みにくかったり、納期に遅れたりする。これでは使ってもらえない。

翻訳者たるもの、出版翻訳であれ産業翻訳であれクライアントのニーズに的確に応える製品を、完成品として安定的に生産することが求められている。翻訳技術を云々する以前に、何のための翻訳技術かを肝に銘じる必要があるのだ。

では、どういう商品がよいのか。それを示したのが、次の〈定理〉。
〈定理〉正確で読みやすいのがよい翻訳である。


ナイダ(言語学者)の翻訳理論が語学教育の世界でもてはやされているようだが、翻訳の現場ではずっと以前から「等価の翻訳とは」の問題を、その場その場の処理の積み重ねで解決してきている。そのひとつの結論がこれだ。第四章にてあらためて説明する。

それからもうひとつ、基本原則として塾生にたたき込んだものに、日本語表現における〈七つの指針〉がある。

指針〉一文を短くする/掛かり方をハッキリさせる/読点は多用しない/リズムある文章にする/不用意に接続詞・接続助詞を用いない/語義は正確に使う/同じ言葉は続けない

これについても第四章で、あらためて述べる。四半世紀に及ぶ翻訳経験の中で体得した経験則を七ヵ条にまとめたものだが、おおかたの日本語論にも同じような指針が示されているのにお気付きだろうか(もちろん、この〈指針〉は絶対ではない。作品や場面に応じてケースバイケースで判断しなくてはならないこともある)。

とはいえ、大方の塾生の場合、〈公理〉〈定理〉〈指針〉だけでは座礁もし難破もする。太平洋には太平洋にふさわしい、地中海には地中海にふさわしい航海の仕方があることを示してあげる必要がある。そこで、現場で求められる訳文を、テーマやジャンルに即してタイプ別に講義することも行なった。
後は、ひたすら実践あるのみ。


◆アイディ翻訳塾のカリキュラムと成果

〈初年度〉

方針 全員、下訳からはじめる。量をこなすことと、よく調べることに重点。
課題一 内容の平易な学習図鑑シリーズの分担下訳(四〇〇字詰め原稿用紙換算全三〇〇〇枚)。納期は校正機関を含め四ヵ月。塾生三〇人が一人当たり一〇〇枚を分担して下訳。私およびプロ翻訳者が朱筆し各人に打ち直させた。

課題二 資料調べが必要な美術史シリーズおよび専門分野の事典(全四〇〇〇枚)。納期は校正機関含め七ヵ月。課題一の成績をもとに一次訳三〇名、二次訳一〇名とし、最終訳は私およびプロ翻訳者が分担。
その他 機会を見て、下訳・校正・清書などで翻訳になじませる。


〈二年度〉

方針 さまざまな分野に挑戦させる。プロの下で単行本の分担下訳をさせる。量を増やし速度を上げさせる。

課題 専門分野の百科事典(全七〇〇〇枚)など高度に専門的な内容の書籍翻訳にも挑戦。塾生の関わった単行本(ムック含む)全四一冊(上訳一五冊、下訳二六冊。約一万五千枚)。他に雑誌・カタログ・資料など多数(約二五〇〇枚)。一人当たりの訳出枚数は四〇〇枚強になる。

成績による一次訳、二次訳の分業進む。とくに優秀な者を上訳に抜擢(一〇名。ほか二名は自力で受注した)。


〈三年度〉

方針 できるだけ多くの塾生を出版デビューさせる。得意分野をつくらせる。

課題 単行本三十五冊(上訳二〇冊、下訳一五冊。約一万四千枚)。他に雑誌・カタログ・資料など多数(約二五〇〇枚)。一人当たりの訳出枚数は四〇〇枚弱。

この年は、さらに一一名を上訳に登用した。他に自力で仕事を取る塾生が増えた。


〈三年間の結果〉

塾生のレベルをT〜Wにランク付けすると、次のような結果になった。

レベルT 三名。充分翻訳家として通用する。二名はこの二年で五冊以上の訳書を出した。残り一名は二冊だが産業翻訳で忙しい。足りないのは自分を売り込む力か。


レベルU 十四名。訳書を出せる実力を有する。十二名はすでに訳書を出したか(最高五冊)、現在翻訳中。


レベルV 十二名。対象と運により訳書を出せる。五名はすでに訳書を出したか(最高二冊)、現在翻訳中。


レベルW 十三名。まだ上訳は無理。とはいえ二名は訳書を出した。


(拙著『翻訳家で成功する』工作舎より抜粋)

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