[翻訳家の常識・非常識:出版]

翻訳会社の経営者になってから、間もなく十五年になる。行きがかりでなったようなポジションだが、翻訳の現場をビジネスという観点で上空から俯瞰できるのは実に面白い。一翻訳家や一コーディネーターでは窺い知れぬ側面が見えてくる。

例えば、予算に見合った商品供給の問題。クライアントはわがままだ。高品質の商品を要求しながら、予算はなるたけケチろうとする。そこで経営者は、ニーズに応え、かつ採算をとるにはどうしたらいいか頭を悩ませる。

とにかく速く、というのなら“竜頭蛇尾”作戦で応える。初めのほうは全力を注ぎ、あとの部分は流していく。また、頑として予算をアップしないのなら“羊頭狗肉”作戦で応える。最高ランクの翻訳家のイメージを与えつつ、実際は一ランク下の翻訳者に奮闘してもらう。

ここで、質を落とさずクライアントを満足させるのが経営者としての腕の見せどころだ。だが実は、こういったテクニックは自由業者たる翻訳者にも求められる。初めはともかくベテランになればなるほど意識せずとも使っている。


最近、久々に自分で一冊訳してみた。日常業務の合間を縫って訳すとなると、一日にかけられる時間は二時間がいいところ。与えられた期間はジャスト二ヵ月。日本語に訳しておよそ四百枚の原稿を二ヵ月となると、土・日を除く毎日十枚、一時間五枚のペースで訳出しなければならない。どう考えても無理な話だ。が、なんとかこなした。パワーによってではなく、テクニックによって可能にしたのである。どういう作戦を立てたのか参考までに紹介しよう。

本は、東亜音楽社から刊行の『ジャズ・ヴォーカルの発声』。著者は、ボーカル・セラピストであると同時に現役のロック・シンガーである。そのためか(?)思い込みが異常に激しい。声帯の軟骨部をなぜかvocal cords(声帯)と呼んでいる。この種の間違いがあると、当然ほかの記述内容にも誤りがあるのではないかと不安になり、専門事典などでいちいち確認しなければならなくなる。また論理的な文章が書けない人なのか、論旨があいまいになったり飛躍する場合が多い。ふだん教室で話すノリで書いているのだろう。その分、文章は平易で、解釈に苦しむところはない。

訳出のポイントは三点に絞られた。@専門用語のチェックと事実確認、A原文の矛盾した記述と下手(へた)な文章をどうするか、?時間的制約をどうクリアするか。

@については、ミュージカル『ミス・サイゴン』などのボイストレーナーを務めている山本隆則氏に、暫定的な訳文を読んでコメントをもらうことができた。Aについては、編集者と相談のうえ、翻訳ものとして許容される範囲で原文をアダプトして、日本語に読むに耐えるものとすることにした。?は口述筆記を雇い、口述録音−ワープロ打ち−本人リライトといった流れ作業で解決することにした。@と?が時間短縮に役立ち、Aが商品としての価値を守った。


こういったノウハウ書の翻訳は時として厄介だ。翻訳作業に割く時間よりも調べものに割く時間のほうが長いといっても過言ではない。完璧を期すれば納期に間に合わず、適当にごまかせば誤訳と堕す。ここをどういった作戦で乗り越えるかがテクニックというものだ。今回は、分業システムを導入することで乗りきった運のよい例といえるかもしれない。


(拙著『翻訳家になる方法』青弓社より抜粋)

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