[翻訳家になる:映像]

その頃、私は声優でもあった。
いまもむかしも芸能界へ入り込むのは大変だ。たいした苦労もなくアテレコの端役がもらえたのには、かつてラジオドラマの子役だったことが幸いした。

 

長嶋茂雄や王貞治がスタープレイヤーとして活躍し始めた昭和三十年代半ば。ラジオ東京(現TBS)が午後六時台の“お子様ゴールデンアワー”に放送していた連続ドラマ「ジャジャ馬くん」の主役、それが私だった。庶民レベルではまだまだラジオ全盛の頃。原作(「冒険王」に連載されていた関谷ひさしの同名野球マンガ)の人気もあいまって、かなりの評判に、ちょっとしたスター気分を味わったものだった。

この縁から当時の番組プロデューサーを頼り、映像業界に潜り込もうと考えた。子役の実績とフランスで演劇の修業をしたキャリアがある。でも、俳優ができるほどの器量ではない。外国語映画担当の別のプロデューサーを紹介された。この人が、演劇の勉強に外国にまで言った経歴を面白がり、外国映画日本語版制作会社の最大手を紹介してくれた。そこでは、各劇団・声優養成学校から推薦されてきていた役者の卵と一緒に、アテレコ研修生のオーディションを受けた。フリー(無所属)としては特別の扱いだった。

これに合格し三ヵ月の研修を受けるとランクがつき(といっても最低のものだか)、仕事がもらえる。初めての仕事は、カトリーヌ・ドヌーブ主演のフランス映画『昼顔』相手役の本当に水もしたたる美男俳優サミー・フレーの吹替役者を録音現場で見て驚いた。そりゃ、フランス人と日本人では多少顔の造作も違うだろう。が、これほどまでには……。

次にもらった仕事では、もっと驚いた。役はついている。だが、台詞(せりふ)がない! 黒沢明の『用心棒』をアダプトしたマカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』。妻が目の前で犯され口がきけなくなった男の役。表現の辛さを充分味わった。でも、なかなか面白い。

ところが、下っぱ役者でどこにも属していないため、なかなか仕事が回ってこない。実は、ギャランティー・マネジメント料二〇パーセントをケチっていたからなのだが……。払って仕事を増やすべきか、それとも出費を控えてじっと我慢すべきか。踏ん切りがつかなかった私はだんだん焦ってきた。思い余って、久しぶりにお声がかかった番組の収録後、ディレクター(演出家)にお願いしてみた。


「あのぅ、語学に多少心得があるんですけど、台本のほう書かせてもらえませんか」

すると、すぐに制作の人を呼び、一本やらせてみるよう手配してくれた。意外だった。いってみるものである。もっともその人が特別太っ腹だったわけではない。当時は、業界が十年以上のベテランばかりでマンネリ化、という事情があった。そろそろ新しい血を、と制作サイドで考え出した頃だ。そこに、私のような演劇をかじっている人間がヒョコッと現れた。わざわざフランスまで渡って芝居を勉強し、カネにならない戯曲翻訳をコツコツてがけている男。なんとかモノになるかも、と実験的に踏ん切ってくれたのではないだろうか。

テレビの深夜枠。“タレ流し”といわれる時間帯の番組だった。主役はスティーブン・マックィーン(五十三歳という若さでガンで亡くなったのは残念)。彼がフットボール選手に扮する『ナンバー』という作品だった。

十日ほどもらった。初めてのことなので、台詞を口に合わせるのが至難の業だった。担当のWさんは、この素人(しろうと)の翻訳を直すのにどんなに苦労したことだろう。いまになって赤面する。けれど一言も文句を言わず、丁寧に直して、刷り上がった台本を渡してくれた。

「言葉はいいけど、長さがちょっと合わないね」
あとで考えると、まったく恥ずかしいかぎりだ。それでもWさんは製作者にクレームをつけなかった。お蔭でちょこちょこマイナー作品の注文がくるようになった。

この程度の仕事を受けるにも、ずいぶんと人のお世話になり好意に甘えた。必ずしも彼らの期待に応えられたとは思っていない。けれど、受けた厚情に対しては一途に仕事をすることで応えてきたつもりた。そうすれば、快い明日の風が吹く。


(拙著『翻訳家になる方法』より抜粋)

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