[翻訳家の日常:演劇]

いまでも、そこを通ると胸がきゅんと鳴る。
恋人と別れたからではない。その辺りで昔、新聞を配っていたからだ。
十二時にニッポン放送前のメトロ入口で待ち、やってくるトラックから束になった荷物を受けとる。創刊間もない夕刊紙である。それを仕分けし、日比谷駅ホームほかのキヨスクの棚に差して歩く。初めの頃なので部数も少なく、一時間で終わってしまう。それで一回二千円と交通費がもらえるのだから、ヒマな人間には悪い話ではない。いまから二十年も前のことである。
それから何もなければ都立日比谷図書館に行き、弁当を食べながら、新聞の求人欄に目を通す(万に一つ、自分の特性を生かせる仕事があるのでないかと)。午後は海外演劇の戯曲や記事を整理し、時にはつてをたどって、より志に近い仕事を得るための挨拶回りをする。そして夕方からは芝居関係者との打ち合わせや観劇……。
なんとも非生産的な翻訳家兼演出家志望者の一日だが、なんとか食いつなげた。というのも、金・土・日は夕方から学習塾で四時間半づつ教えていたからだ。この報酬が一時間当たり二千円で、月十一万円。新聞配達と合わせると十六万円となり、同期の新卒サラリーマンより(ボーナスは別にして)月収は多かった。
拘束時間が少なく、気分的にも体力的にもあとに悪影響を残さない効率のいいバイトで、まず定収入を確保。徐々に機会を見て、もっと実入りがよく時間の自由になる翻訳へと仕事を切り換えていく、というのが私の食うための戦略だった。最後に、うまくいけば、演劇関連産業のみで糊していこう(もっとも、当時はいまのように商業演劇も盛んではなかったし、マスコミの後ろ楯も弱かったから、期待はあまりしていなかったのだが……)。
戦略を立ててから一年もしないうちに、状況が動きだした。
まず、塾を二日に減らすことができた。俳優にフランス語を教える口が入ったからだ。これは、演劇雑誌「テアトロ」に小さな広告を打った成果。同じ教えるにしても、目的に近いほうがいいに決まっている。
また同じ頃、新聞社にいた友人が、気の毒がって、自社のイベント部門の仕事を紹介してくれた。仕事自体は簡単なものだった。外国舞踏団を招聘する企画のプログラム作成。そのまたお手伝いにすぎなかった。そのときは、この仕事が翻訳家への道へ通じるとは夢にも思っていなかった。
しばらく経って、そこで知り合った東宝の社員が、私に声をかけてきた。宝塚の仕事を紹介する、という。私が舞台のことにやけに詳しいのを覚えていてくれたのだ。仕事の内容は、有名なミュージカル『オクラホマ』の翻訳。これは、東宝重役だった故・森岩雄氏の訳がそれまで使われていた。が、今回は事情があって使えない、とのこと。
しゃかりきになって一ヵ月で仕上げ、持って行った。
しばらくして、タイプ印刷のインクの匂いがブーンとする上演台本が届いた。私の名前が活字で刻まれた初めての翻訳作品。訳者名を見た瞬間、何か気恥ずかしいような、誇らしいような気がした。
(拙著『翻訳家になる方法』青弓社より抜粋)

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