2020年12月号 柴田耕太郎

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モロン:
フィリス、ここにいてくれ。
フィリス:
いや、他の皆さまについてゆかせて。
モロン:
ひどいことを!ティルシスが話しかければ、すぐここに残るくせに。
フィリス:
そうかもしれない。アンタよりあの人と一緒の方がよいのですもの。だって、ティルシスは声で私を楽しませてくれるのに、アンタはおしゃべりでうんざりさせる。あの人と同じぐらい上手に歌ってくれるなら、アンタに耳を傾けるわ。
モロン:
ちょっとだけでも一緒にいてくれ。
フィリス:
そんなの無理。
モロン:
お願いだ!
フィリス:
ダメ、言ったでしょ。
モロン:
絶対に行かせないぞ。
フィリス:
ああ!ひどい人!
モロン:
少しだけ一緒にいてくれと頼んでるだけじゃないか。
フィリス:
なら分かった、いてあげる、但し私に一つだけ約束して。
モロン:
何を?
フィリス:
何も話しかけないって。
モロン:
おいおい、フィリス!
フィリス:
でないと、絶対一緒にいないわよ。
モロン:
そんなこと言ったって…
フィリス:
じゃあ行く。
モロン:
ああ!分かったよ、居てくれ。何も話さないから。
フィリス:
充分注意なさい。ちょっとでも話したら、逃げ出すわよ。
モロン:大げさな身振り手振りをする
おっと。フィリス!…ああ!…逃げちゃった。俺の手にゃ負えない。悲しき真実。歌さえ出来ればな、しっぽりくどけるのに。今日日では女たちを捕まえるにゃ耳から入らねばな。それで、誰もが音楽をかじろうとするが、女たちに聞かせてやるのに粋な節回しじゃなきゃ旨い効果を与えられない。はしこい連中のようにオレも歌い方を習わなきゃな。よし、ちょうどいい奴がやってきた。
(『エリード姫』第2幕 第3の幕間劇第1場)

モロン:
フィリス、行かないで。
フィリス:
いやよ。姫さまのお供をしなきゃ。
モロン:
ああ!ひどいや!ティルシスに頼まれたら、喜んで一緒にいるんだろう?
フィリス:
そうかもね。あんたよりはあの人のほうが一緒にいて楽しいし。だってあの人は綺麗な声で私を楽しませてくれるけど、あんたのお喋りにはうんざりだもん。あの人みたいに歌がうまくなったら、話しを聞いてあげるわよ。
モロン:
ねえ!ちょっとでいいから。
フィリス:
嫌よ。
モロン:
お願い!
フィリス:
ダメ、って言ってるでしょ。
モロン:
行かせないぞ。
フィリス:
もう!うるさいわねえ。
モロン:
ちょっとでいいから一緒にいてよ。
フィリス:
いいわ、わかった。一緒にいてあげるから、ひとつ約束してくれる?
モロン:
何?
フィリス:
何も喋らないって。
モロン:
えーっ?フィリスったら!
フィリス:
約束できないなら、一緒にいてあげないわよ。
モロン:
つまり…?
フィリス:
じゃ、行くわね。
モロン:
ねえ!行かないでよ。もうひとことも喋らないから。
フィリス:
じゃあ、そうしてね。ちょっとでも喋ったら、行っちゃうわよ。
モロン:(モロンはいろいろな仕草をする)
ほらね。ああ!フィリス!…ねえ!…行っちゃった。とても追いつけないや。何てことだ。歌さえ歌えれば、もっとうまくやれるのに。近頃は女を口説くには耳から入らないといけないからなあ。誰も彼も音楽を習おうとするのも無理ないよ。だって、女を夢中にさせるには、ちょっとした歌や詩を聞かせてやるのが一番だもんね。ほかの奴らに負けないように、俺も歌を習おう。あっ、ちょうどいい人が来てくれた。
(同じ部分、秋山伸子訳)

 

台詞の四つのパターン、「独白」「対話」「掛合」「会話」のうち、「会話」に分類される部分。
上に二つの訳文を並べたが、大した違いはないのが分かるだろう。極端な話、この部分だけ元訳に入れ替えても、違和感は起こるまい。文法が難しいわけでも、解釈が割れるわけでも、難解な思想が込められているのでもない。だから、誰がやってもそう変わらないのが「会話」部分だ。私なぞズボラなものだから、こうした箇所が出てくると、他人様の訳文を引き写して、それを和文和訳し楽をしようかと誘惑にかられる。
語学力がない、または翻訳に無知な演出者またはその関係者が、「翻訳なんてちょろいものよ」と思い込むのはこの「会話」部分においては正しいかもしれない。その調子で、他の「独白」「対話」「掛合」部分も、どこかの訳を見ながらお気軽に手直しするのだろう。
最近の翻訳劇で訳者名がクレジットされず、「上演台本」何某(たいていは演出者)となっているのはそのためか。
だが、作者の思想が凝縮された「独白」、主張と主張のぶつかりあいである「対話」、軽妙さが命の「掛合」部分は、いずれも日欧語の誤差がはなはだしい。噛んで含めた欧文和訳調なら原作の言わんとするところをほぼ伝えられようが、読むに堪えるもしくは朗ずるに堪える訳文を目指す場合においては、よくても90%程度しか移しえない。つまり訳した段階で、どんなに優れた翻訳と言えども質の悪いコピーになっているのだ。
後ろめたさを感じずに、「上演台本」と自負をもって記したいなら、良質な既存訳を左に、原文を右にし、丁寧に比べ合わせ、自分の訳文を作ることが必要だろう。それだけの語学力がないというなら、せめて原語を充分読み解ける人物に、疑問になる箇所を問いただしながら、己の訳稿を練っていただきたい。翻訳にはどうしても、「解釈」という作業がまとわりつくからだ。
大方の演出者またはその関係者がやっている「上演台本」づくりは、質の悪いコピーをさらにコピーするのと同じで、原文から遠ざかり、意味が曖昧になり、狙いがズレてしまうだろう。それを読まされる演技者は可哀そうだ。中身の薄まった台詞では演技の膨らませようなどないのに、あえて意味付けする空疎な苦労を強いられよう。それを見せられる観客においておや。
もっともこうした傾向を生んだのには、我々翻訳者の責任も大きい。
原作者がそばにいないのを幸いに、作者面してあぐらをかき、下手くそな訳文を提供し、一切直しを許さない訳者が随分といた(目の仇にするわけでないが主に大学語学教員)。そこで、苦肉の策で、演出者が「翻訳」とは別に「上演台本」という知恵をひねり出した経緯がある。その「上演台本」が独り歩きし、誰でもいい、どれでもいい、変えてもいい、翻訳者などいらない、という風潮を作り出したのではないか。
演劇における翻訳の意味を、業界人は一度じっくり考えて頂きたいものだ。

ついでにもう一つ、「会話」の三訳例を掲げる。

ヴァレール:
マリアーヌさん、僕は今知らせを耳にしました。
僕が知らずにいた、そしておそらく大変結構な知らせを。
マリアーヌ:
何ですの。
ヴァレール:
貴女がタルチュフと結婚されるという知らせです。
マリアーヌ:
確かに
父がそんな風に動いているのです。
ヴァレール:
お父さまがですか、マリアーヌさん…
マリアーヌ:
そう、考えを変えたの。
そのことを父から直接聞きました。
ヴァレール:
何ですって。本気なんですか。
マリアーヌ:
ええ、うそじゃありません。
この婚姻のことを父にはっきり申し渡されました。
ヴァレール:
で貴女の心はどうなのですか、
マリアーヌさん。
マリアーヌ:
分かりません。
ヴァレール:
そのお答えは正直なものですか。
分からないと。
マリアーヌ:
そうです。
ヴァレール:
そうですって。
マリアーヌ:
どうしろとおっしゃるの。
ヴァレール:
その相手をお選びなさい。
マリアーヌ:
そうしろとおっしゃるの。
ヴァレール:
ええ。
マリアーヌ:
本気で。
ヴァレール:
確かに。
その選択は名誉なもので、充分に従う価値があります。
マリアーヌ:
あらまあ。それが貴方さまが下さるご助言ね。
ヴァレール:
それを聞き入れるのは訳ないことでしょう。
マリアーヌ:
そうした助言をすることで貴方の魂がたいして傷まないのと同じ位にね。
ヴァレール:
僕は貴女に喜んでもらおうとしてそう言ったのですよ。
マリアーヌ:
私だって、貴方を喜ばせようとしてお言いつけに従うのです。
(タルチュフ』第2幕第4場、柴田耕太郎訳)

ヴァレール:
ついさっきある話を人から聞かされたんですが、これが僕も今まで知らなかった素晴らしいお話なんですよ。
マリアーヌ:
どういうお話ですの?
ヴァレール:
タルチュフと結婚なさるんですって?
マリアーヌ:
たしかに父はそのようなことを思いつかれましたわ。
ヴァレール:
お父さまがですか…。
マリアーヌ:
父は結婚相手を変更なさいましたの。私もたった今父からうかがったところですわ。
ヴァレール:
何ですって?本気でそんなことを?
マリアーヌ:
ええ、本気ですわ。この結婚を決めたときっぱりおっしゃいましたわ。
ヴァレール:
それであなたはどうなさるおつもりなんです?
マリアーヌ:
さあ。
ヴァレール:
ご立派なお答えですね。「さあ」ですって?
マリアーヌ:
ええ。
ヴァレール:
「ええ」ですか?
マリアーヌ:
私はどうすればいいと思われます?
ヴァレール:
僕なら、その方と結婚されるようお勧めしますよ。
マリアーヌ:
そうお勧めになりますの?
ヴァレール:
ええ。
マリアーヌ:
本気ですの?
ヴァレール:
もちろんです。すばらしいお話じゃありませんか、ぜひお受けするべきですよ。
マリアーヌ:
あら!それじゃ、そのご忠告をお受けしますわ。
ヴァレール:
それを実行するのは、たいしてつらくもないでしょう。
マリアーヌ:
私にそんな忠告をしてもあなたの心が痛まないのと同じですわ。
ヴァレール:
僕がそう言ったのは、あなたに喜んでいただけると思ったからですよ。
マリアーヌ:
私は、ご忠告に従って、あなたに喜んでいただきたいと思いますわ。
(同じ部分、秋山伸子訳)

ヴァレール:
お嬢さん、ちっとも知りませんでしたが、妙なうわさを聞きましたよ。
マリアーヌ:
どんな?
ヴァレール:
あなたがタルチュフと結婚なさるとか。
マリアーヌ:
父がそんな考えを起こしたことは事実ですわ。
ヴァレール:
お父さまが…。
マリアーヌ:
ふっと気が変わって、そんなことを言いだしたんです。
ヴァレール:
え?本気で?
マリアーヌ:
ええ、本気で。この話をまとめてみせるとはっきり申しましたわ。
ヴァレール:
で、あなたのお考えは?
マリアーヌ:
わかりません。
ヴァレール:
あっさりしたもんですね。わからないんですか?
マリアーヌ:
ええ。
ヴァレール:
ええ、ですって?
マリアーヌ:
どうしたらいいかしら?
ヴァレール:
その人と結婚したらいいでしょう。
マリアーヌ:
そうしろとおっしゃるの?
ヴァレール:
ええ。
マリアーヌ:
本気で?
ヴァレール:
もちろん。すばらしいお婿さんじゃありませんか。おとなしく言うことをきくだけの値打ちはありますよ。
マリアーヌ:
いいわ!ご忠告なら従います。
ヴァレール:
従うのが大してつらいわけでもないでしょう。
マリアーヌ:
忠告なさるあなたが平気でいらっしゃるようにね。
ヴァレール:
ぼくは、あなたに喜んでもらおうと思って、そう言ったまでですよ。
マリアーヌ:
あたしは、あなたの御意に召すように、従うまでよ。
(同じ部分、鈴木力衛訳)

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