2020年9月号 柴田耕太郎

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オクターブ:
嗚呼!恋する心に辛い知らせだ、俺が陥った絶体絶命の窮地!
シルベストル、親父が帰って来るって港で聞いたって?
シルベストル:
さようで。
オクターブ:
それも今朝着くって?
シルベストル:
それも今朝。
オクターブ:
で親父は俺を結婚させるって?
シルベストル:
さようで。
オクターブ:
ジェロントさんの娘と。
シルベストル:
ジェロントさんの娘と。
オクターブ:
それで娘はタラントからここへ呼ばれてるって?
シルベストル:
さようで。
オクターブ:
お前はその便りを叔父さんから聞いたって?
シルベストル:
叔父さんから。
オクターブ:
親父は叔父さんに手紙でそれを知らせたって?
シルベストル:
手紙で
オクターブ:
で叔父さんは僕らの事を全部知っているって?
シルベストル:
僕らの事全部。
オクターブ:
ああ。答えるのはいいが、人の言葉をオウム返しにしないでくれ!
  『スカパンの悪だくみ』第1幕第1場

十数作品訳してみて、モリエールの台詞には、4つのパターンがあるのに気づいた。
格調ある独白
女に裏切られたアルノルフの嘆き(『女房学校』)。好色道をひた走るドン・ジュアンの決意(『ドン・ジュアン』)。人妻に言い寄るタルチュフの口説(『タルチュフ』)など。
論理の応酬
無知とは何かを論争するクリタンドルとトリソッタン(『女学者』)。医学の功罪で対立するアルガンとベラルド(『気で病む男』)。人間らしさの見解を異にするアルセストとフィラント(『人間嫌い』)など。
日常の会話
恋の成就を願うオラースとそれに助言するアルノルフ(『女房学校』)。教養を身につけたいジュールダンとその道を教授する哲学の先生(『町人貴族』)。マリアーヌの想いと意地をはるヴァレール(『タルチュフ』)など。
乙張りのきく掛合い
窮地を嘆くオクターブとそれを受け流すシルベストル(『スカパンの』悪だくみ』)。金をケチるジェロントと引き出そうとするスカパン(『スカパンの悪だくみ』)。持参金無しにこだわるアルパゴンと人情を説くヴァレール(『守銭奴』)など。

これらが綯い交ぜになって、芝居に緩急をつけている。
訳していて気持ちがいいのは、独白。自分が演じ手になった気分で、どう表現すれば観客を唸らせられるだろうかなどと考え、パソコンのキーを叩く。
会話は誰が訳してもさして変わらず、新たに訳す必要があるのかと自問することもある。
応酬が一番大変だ。理屈第一だが、読み手・聴き手を飽きさせず、硬くなりすぎないようにせねばならない。しかも文法的・論理的読み解きが難しく、この部分が続くと果たして最後まで訳しおおせるだろうかと不安になる。
ほっとするのは掛合い
漫才を意識し、アップテンポを心がけ、自然な日本語にできるのはオレしかいないなどと、自分をおだて楽しみながら筆を運ぶ。上手くいったときなど、思わず乾杯したくなる。

冒頭の掛合いは、『スカパンの悪だくみ』の幕開け部分。父親に黙ってした結婚がバレ、若旦那オクターブが慌てふためく。従僕シルベストルは我関せずと、言葉を受け流す。それで、オウム返しは止めろとオクターブが癇癪を起す仕儀。昔コメディー・フランセーズで観たとき、シルベストルのいい加減な受け答えに、オクターブが途中で怪訝な表情を見せたのを思い出す。

似たような場面は『守銭奴』第1幕第5場にもある。
ケチのアルパゴンが娘エリーズを金満家に娶らせようとして、執事のヴァレール(実はエリーズの恋人)に同意を求めるくだり。

アルパゴン:
何だと。アンセルムさんはふさわしい結婚相手だ。あの方は名門の出で、優しい、落ち着いた、賢明なそして立派な紳士だ。それに、最初の結婚での子供はもう誰も残っていない。これ以上よい相手を娘は得られるか。
ヴァレール:
確かでございますね。でも、お嬢さまはこう申し上げたいのかもしれません、ちょっとことを急ぎ過ぎだ、せめて相手の方のご性格が自分に合っているかどうか判断する時間が欲しいと…。
アルパゴン:
好機は逃してはならないと言うではないか。それにこの縁談には他にはない利点が一つある。相手はな、持参金なしでよいと明言しているのだ。
ヴァレール:
持参金なし
アルパゴン:
そうだ。
ヴァレール:
ああ。もはや申すべきことはございません。いや、それは完全に説得力のある理由です。それには服さねばなりません。
アルパゴン:
ワシにとってかなりの節約になる。
ヴァレール:
文句のつけようがございません。でも、お嬢さまにも一理あって、結婚は人間がその価値を信ずるに足る一番大事なものである、一生を通じての幸不幸にもかかわる。だから、死ぬまで続くことになる約束は用心に用心を重ねてしたい、とお思いなのでしょう。
アルパゴン:
持参金なしで
ヴァレール:
仰せご尤も、それがすべてを決します。まあ中にはこうおっしゃる方がいるかも知れません、娘の好みこそ先ずもって考慮しなければならないことである。そして、年齢、性格、趣味・嗜好の不釣り合いは結婚に悩みの種をもたらす、と。
アルパゴン:
持参金なしでだ
ヴァレール:
ああ。それに対して一切反駁はできません。皆そのことをよく分かっております、一体誰が逆らえると言うのでしょう。とはいえ、自分たちが用意せねばならない金のことより、娘の満足をより高めてやりたいと思うのも親心で。そうした父親は娘を利益の犠牲にしたいとはつゆ思わず、他のどんなことよりも、二人の穏やかな結びつきが、平穏と喜びと名誉を伴い、何時までも続くよう願うものですし…
アルパゴン:
持参金なしでだぞ
ヴァレール:
御意。それが全ての人の口をふさぎます、持参金なし。このような理由に逆らうなぞ…。

下線部の原語はいずれもsans dot(持参金なし)。
訳文では、「なし」「なしで」「なしでだ」「なしでだぞ」と念押しの語尾を次第に重ねてみた。ヴァレールの必死の説得と対照し、アルパゴンの強欲ぶりを示すためだ。
効果のほど、読者はどうお思いだろうか。

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