2019年2月号 柴田耕太郎

スガナレル:(嗅ぎ煙草を手に)
アリストテレスが、いやどんな哲学者が何と言おうと、煙草ほどよいものはない。立派な方々の嗜好品だし、煙草なしで生きるなど考えられない。煙草は脳を楽しませ清らかにするばかりか、精神を徳へといざない、人間は煙草によって紳士になる術を学ぶ。分るだろう、煙草を吸った途端、人は周りに思いやりをもって接し、愛想をふりまく。求められるまで待たず、自分から先に相手の望みに応えようとする。まことに愛煙家なればこそ人品大いに高まるというものだ。
『ドン・ジュアン』第一幕1場

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 幕開け、ドン・ジュアンの側仕えであるスガナレルの台詞。
このころ煙草が大流行で、宮廷から庶民に至るまでの嗜好品となっていった。だが値段が高い、嗜癖性がある、異臭がする、身体に悪いなど煙草害悪論もでた。それに対する皮肉と時代の風俗を舞台に写す意図でモリエールはこの台詞を入れたのだろう。このあと一切煙草への言及はない。
 1492年、コロンブスのアメリカ発見とともにもたらされた煙草は、130年ほどで全世界を廻り、日本へは1543年の鉄砲伝来と同じころに伝わった。当時の文献には、宣教師が煙草を吸っているのを見た人々が、腹から煙を吹いていると驚く記述が見られる。
 フランスへは1560年ごろ、駐ポルトガル大使、ジャン・ニコが宮廷に伝えた。女帝然としていたカトリーヌ・ド・メディシスの偏頭痛を治したことで、ニコの出世は確約された。
 カトリーヌ・ド・メディシスはフランス王、アンリ2世の妃で、3人の国王(フランソア2世、シャルル9世、アンリ3世)の母であり、隠然たる力を揮った。息子のシャルル9世と組み、新教徒を虐殺した事件は名高い。
 高校の時、定評ある山川出版社の世界史を使っていたのだが、その記述に何か違和感を覚えた。「セント・バーソロミューの虐殺:時の国王シャルル9世と母后カザリンは…」。英語読みとフランス語読みがごっちゃになっているからだ。明治の川柳にも「ギョエテとは俺のことゲーテ言い」というのがある。今なら、セント・バーソロミュー⇒サン・バルテルミ、カザリン⇒カトリーヌとするところ。地名・人名が現地語読みに統一されたのは、そう遠いことではなく、昭和40年以降だろう。

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