2018年9月号 柴田耕太郎

アルノルフ:
あるギリシャの哲学者が、アウグスツス皇帝に言った、
正しく同時に有益な教訓として。
自分が怒りたい出来事があったとき
何よりもアルファベットをそらんじて御覧じろと。
全部唱える前に、怒りは和らいでいる、
それで、する必要のないことをしないで済ませられる。
アニュスの件では、この教訓に従おう。

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末は自分の妻にと、幼いころから手塩にかけて育てた少女アニュスが、どこかの青年と恋仲らしいのを知り、それをアニュスに問いただそうとするアルノルフの独白。
子供の頃に「怒りたくなったら、その前に十数えるんだよ」と諭されたのを思い出す。
教訓は万国共通か。

もっともアウグスツス皇帝云々は、実話でない。
シーザーの養子であるオクタウィアヌス(BC.63~AD.14)は、シーザー亡き後の三頭政治を勝ち抜いて、初のローマ皇帝の座に着いた(アウグスツスは「尊厳者」を意味する称号)。
だがその師でギリシア人となると、相応しい人物が見当たらない。大セネカ(BC.55~AD.39)が同時代だが、ローマの修辞学者である。その子供が小セネカ(BC.4~AD.65)だが、これは皇帝ネロの師であった。結局、モリエールの創作で、ヒントとなったのは、おそらく次のものであろう。
一つは:
その著『英雄伝』(ギリシャの傑出した政治家・軍人をそれに比肩するローマの人物と並べ両者を比較することから『対比列伝』とも言われる)で知られるギリシアの倫理学者であるプルタルコス(AD.46~119)の『箴言』からの着想。
一つは:
イタリアのルネサンス期の作家、ベルナルディノ・ピノ(1530~1601)の戯曲からのひらめき。
作家の筆は自在に時空を超えるのである。

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