2018年7月号 柴田耕太郎

つまりですな、良心のとがめなどというものは簡単に潰せるのですよ。
貴方はいま完全な秘密を保証されています、
悪というものは人が立てるやかましい雑音の中にしか存在しないのです。
世間に醜聞が広まることこそ、罪を犯したということなのです、
誰も知らなければ、それは罪でも何でもない。

『女房学校』5幕4場

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美貌の人妻エルミールを口説く、似非信心家タルチュフのことば。

 不正や破廉恥が露見した後の記者会見で、当事者が「大いに反省しています」としおらしく頭を垂れる場面は今や日常茶飯事。
だが違和感がある。悪いと思っているなら、最初からやらねばいいはずだ。この人たち、バレるまで悪いと気づかなかったのか、それともいけないと思いながらずっと続けていたのか。前者なら倫理観の欠如で子供と同じで何をか言わんや。後者なら確信犯といえるが、その後ろめたさを払しょくするのが、上記タルチュフの台詞だろう。そう「ばれなきゃいい」のだ。

 タルチュフは躊躇するエルミールに、さらにダメ押しする。
「奥様、私は良心の咎めを取り去る方法を心得ているのです。
天は、全く以て、ある種の欲望を禁じています。
しかし、神との妥協案を考え出した人がいるのです。
様々の必要の見地から、それは一個の立派な解釈となっています、
我々の良心の束縛をゆるめ
行動の悪を修正するのに
我々の意図の純粋さをもってする、というものです。」

 目的が正しければ、望ましくない行為も免罪される (タルチュフの場合、目的自体もいかがわしく、詭弁であるが) かどうかは、昔から大きな問題だった。
戦国末期に日本を訪れた、厳格で鳴るイエズス会宣教師たちもこれに突き当たっている。フランシスコ・ザビエルは倫理・男色女色には厳しかったが、商売の道を封建領主に教えるなど、本来の伝道師としての職務を一部逸脱している。原理・原則を唱える日本教区長のカブラルに対し、日本巡察使のヴァリニャーノは、布教対象地の風俗習慣を重んじる「適応主義」を主張し、鋭く対立した。中国布教30年で改宗実績を挙げたマテオ・リッチは現地の風習である偶像崇拝を認めたため、イエズス会本部から懲戒されている。

 近頃の天下の財務官僚も、今は国家の大事な時、政局に弱みがあってはならない、という国を憂うる気持から文書改ざんに手を染めたのかもしれない。「ウソも方便」(方便は目的のための仮の手段という仏教語由来)は世渡りを円滑にする柔軟な言葉だが、行き過ぎると弊害をもたらす。

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