2021年1月号 柴田耕太郎

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ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。
今回から旧訳が永井淳、新訳が田口俊樹による『飛行士たちの話』。いずれも早川書房刊。

2021年1月号
『ある老人の死』Death of an Old Old Man

第二次大戦中の英国人パイロット。自軍の敗色濃かったころは勇猛果敢であったが、このところ死ぬのが恐い。勝ち戦に転じたからだ。勝てばいろいろ楽しいことが待っているはず、まだ50年も生きられるのに犬死したくない。そんな死への恐怖心もいざ空中戦となれば吹っ飛ぶ。歴戦の勇士らしく、ドイツ航空機と一騎打ちに挑む。両者ともなかなか譲らず、とうとう翼が触れ合い、墜落する羽目に。パラシュートで降りたのは、広い牧場の池の中。敵のドイツ人飛行士もそこに落ち、くんずほぐれつするうちに、気分が透明になり、無益な争いをやめてしまう。死んでしまった自分の遺体をまさぐる敵パイロットに、そんなことしないで気楽に行こうぜ、と声をかけてやる。驚いて駆け出すドイツ人飛行士。

空中戦の場面が、私には難しかった。ふつうだと前置詞、副詞を丁寧にほぐしてゆけば、位置関係が分かるものだ。だが今回、戦闘機の知識がないものだから、飛んでいる敵味方の、刻々変わる動きを可視化できない。新旧訳ともよくできている、と思う。専門家にはどうであれ、私のような門外漢に、そこそこの興味をもって読ませる文章となっているからだ。両者がこの方面得意であるかどうかは分からないが、うまく誤魔化すのも翻訳の技術のうち。
それでとやかく言える立場でないが、気になった箇所だけ記しておく。

原文p199、永井訳p14、田口訳p10
So that wasn’t anything either.
旧訳)×
だから、それもどうということはなかった。
新訳)〇
だから、そんなことは少しも問題ではなかった。
コメント)
出撃命令をもらうずっと前から自分にはそれが分かっていた、とくどくど述べた後に続く言葉。thatは「出撃命令」を指す。not anything=nothingで、「出撃命令なんて何でもない」eitherは否定文で、その内容を強調する(=certainly)。
永井はnot ~ either「…もまた~ない」と読んでいるが、その場合anything(あるかないか不定なもの)は補語にはなりえない。
例:I love her―and I’m not the only one either!(私は彼女を愛しているが、といっても私だけではない)のように具体的なものが来る。

 

原文p199、永井訳p14、田口訳p12
But it was fine when I tightened my jaw muscles and said, ‘thanks God for that. I’m tired of sitting around here picking my nose.’
旧訳)△
しかし顎の筋肉をこわばらせて、「そいつはありがたい。いつまでもこんなところに坐って、鼻くそをほじくっているのはごめんだからな」と言ったときは、まだよかった
新訳)〇
それでも、顎の筋肉をこわばらせて、「助かった。ここに坐って鼻くそをほじくってるのにはもううんざりしていたところだ」と言ったときには、平気なふりができた
コメント)
次に自分が戦闘機に乗るのを指名され、恐怖感をあからさまにしまいと必死な心理描写に続く記述。このfineは皮肉・自嘲を表している。恐怖感がまだ少なかったのではない、虚勢を張ってそれを抑えることが上手くできたのだ。

 

原文p200、永井訳p16、田口訳p13
There’s Ijmuiden. Just the same as ever, with the little knob sticking out just beside it.
旧訳)△
エイモンデンが見える。例によって小さな瘤がすぐ横に突き出ている。
新訳) △
オランダのエイマイデン。その港から横に突き出た防波堤がいつものように小さなこぶのように見える。
コメント)
アムステルダムの外港エイモンデンは、北海運河の出口に位置し、巨大な関門で有名。これを例えているのが分かるように訳す。⇒名物の巨大な関門

 

原文p202、永井訳p18、田口訳p16
Here I am today, at two o’clock in the afternoon, sitting here flying a course of one hundred and thirty-five at three hundred and sixty miles an hour and flying well;
旧訳)?
今日もこうして午後の二時に、百三十五度のコースをとって、時速三百六十マイルで順調に飛んでいる。
新訳)?
今は午後の二時。おれはここに坐って方位135時速三百六十マイルで順調に飛んでいる。
コメント)
このcourseは「行程」の意味だと思うが。flyは自動詞で「飛ぶ」。a course of以下は、前置詞抜きで本文に副詞的に掛かる名詞句(副詞的対格とか副詞的目的格といわれるもの:時間、距離、仕方に関する場合が多い)。「百三十五度」は①「度」と読ませる指標がない ②緯度は90までしかないし、経度だとすると西経157度がホノルル、東経135度が明石で、ヨーロッパ戦線には該当しない。
135マイルは約200キロだから、飛行基地イギリスから目的地オランダまでの大体の距離にあたる。⇒百三十五マイルの航路を。

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