2020年9月号 柴田耕太郎

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ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。
旧訳が田村隆一、新訳が田口俊樹による『あなたに似た人』。いづれも早川書房刊。

『ねずみとりの男』THE RATCATCHER
ゴードンとクロードの営むガソリンスタンドに、保健所からの指示でネズミ捕り男がやってくる。下水管に棲みつくネズミを駆除する秘密の方法を証(あか)して、二人を感心させる。続いて藁の山に潜むネズミを駆逐しようとするが、うまく行かない。バツが悪くなった男は、自分だけができるネズミを使った妙技を披露する。まずイタチとネズミを自分のシャツに入れて、格闘させるとイタチがネズミを食い殺した。つぎに自分がネズミに指一つ触れず、ネズミを殺すことが出来るという。ネズミの脚に細紐を結び、行動を制限したうえで、だんだん近づいてゆき、最後にパクッと…。

原文:p609
The man was lean and brown with a sharp face and two long sulphur-coloured teeth that protruded from the upper jaw, overlapping the lower lip, pressing it inward.
旧訳:p389
その男は、するどい顔つきをしていて、やせこけて、陽にやけていた。上顎から硫黄色の歯がとび出していて、下唇とぶつかりあい、それを中の方へ押しこんでしまっている。
新訳:p127
男は痩せていて褐色の肌をしていた。線の鋭い顔をしており、上顎から突き出た硫黄色の二本の長い歯が下唇にかぶさり、下唇を内側に押しつけていた。
意見:
sharpは意味が広く翻訳者泣かせ。「するどい」△(旧訳)では刑事とかやくざを連想してしまう。「線の鋭い」△(新訳)は「顔」とのコロケーションが悪い。「角ばった」だとゲタ顔を想像してしまう。「鋭い目鼻立ち」が無難か。
leanは、悪い意味ではない「身が引き締まっていること」。「やせこけて」×(旧訳)、「痩せていて」△(新訳)。「細身で」としてはどうか。

原文:p611
The accent was similar to Claud’s, the broad soft accent of the Buckinghamshire countryside, but his voice was more throaty, the words more fruity in his mouth.
旧訳:p393
そのアクセントは、クロウドのそれとよく似ていた。バッキンガムシャーの一地方にある、あの幅のひろい、やわらかなアクセントだ。でも、彼の声はもっと野太く、口の中で、もっとうるおいをふかめているかのようだった。
新訳:p132
訛りはクロードの訛り―開けっぴろげで柔らかなバッキンガムシャーの田舎の訛り―と変わらなかったが、声はもっと野太く、ことばも口の中でもっとよく響いた
意見:
このbroadは「訛りの強い」。例:speak English with a broad German accent ひどいドイツ訛りの英語をしゃべる。「幅のひろい」×(旧訳)、「開けっぴろげな」△(新訳)。「癖のある」でどうか。
softは「軟音の」(cがs、gがdjのように発音される)ととるのがよいだろう。訳はこのままでよい。
fruityは多義だがここでは「柔らかくて豊かで美しい;太い低い;朗々とした」。「うるおいをふかめている」×(旧訳)、「「よく響いた」〇(新訳)。「よく響く」としてはどうか。

原文:p619
‘That’s what they makes lickerish out of,’ he said.
旧訳:p411
「味をうまくするんだよ、こいつは」と彼は言った、
新訳:p150
「こいつが旨味になるんだよな」と男は言った。
意見:
ここだけだとどちらも同じようだが、「ネズミの血がチョコレートの隠し味になる」というのが続くところから、説得性で新訳がベター。

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