2020年7月号 柴田耕太郎

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『告別』NUNC DIMITTIS
 初老の富豪ライオネルは、若い美女ジャネット・デ・ペルジアと付き合っていた。あるとき、旧知のポンソンビー夫人から、ジャネットが自分の悪口を言っていたと告げられる。誇りを傷つけられたライオネルは、残忍な復讐を企てる。人気画家ロイデンが女性を描く際の、まずヌード、それから下着、ドレスと、絵の具を上に塗り重ねてゆく技法を知り、彼女の全身大肖像画をひそかに依頼した。出来上がった肖像画、上塗り部分を丁寧に落としていった。そして、社交界の紳士・淑女を自邸に集めローソクの灯での晩餐会を催す。宴が終わり明かりが点くと、壁には何と下着姿のジャネットの絵が飾られていた。
 ライオネルは郊外の別荘に行方をくらますが、ジャネットから「貴方の冗談を怒ってはいない」との手紙と一緒に好物のキャビアが送られてきた。そのキャビアを後悔の念とともに数匙胃におさめたところ―何だか具合が悪くなってきた。

旧訳の瑕疵は、誤訳が8か所、悪訳が12か所。新訳ではほとんど直っている。それでも少し検討したい箇所がある。

原文:p574 
(… ; and because they are so fabulous and beautiful they create an atmosphere of suspense around him in the home, something tantalizing, breathtaking, faintly frightening)―frightening to think that he was the power and the right, if he feels inclined, to slash, tear, plunge his fist through a superb Dedham Vale, a Mont Saint-Victoire, an Arles cornfield, a Tahiti maiden, a portrait of Madame Cezanne.
旧訳:p313 △
あのすばらしいデダム・ヴェール、モンサン・ヴィクトワール、アルルの麦畑、タヒチの女、セザンヌ夫人の肖像を、ズタズタに切ろうと、ひき裂こうと、ゲンコツで突き破ろうと、やる気になればやるだけの権力と権利が彼の手にあるということ、それは、こう考えるときのおそろしさだ
新訳:p41 ×
実際、その気になれば、コンスタブルのデダムの谷や、セザンヌのモン・サント・ヴィクトワール山や、アルルの麦畑や、タヒチの女たちや、マダム・セザンヌの肖像を切り裂き、引き裂き、それらに拳を突っ込む力と権利が自分にはあることを思うと、ぞくぞくすることがある
意見:
旧訳、「こう考える」の「こう」の指すものがあいまい。
新訳、語り手が「力と権利が彼(自分のことを芸術に造詣深い富豪に一般化して言っている)にある」と思っているのでない。ここはfrightening「(自分のことで)他人を恐れさせる(この男は名画を引き裂いてしまうのではないかと思わせて)」。他動詞の現在分詞形の形容詞は「人を…する/させる」、自動詞の現在分詞形の形容詞は「人を…する」と覚えておくとよい。例:an interesting person 人に興味を起こさせるひと⇒面白い人、a dreaming beauty 夢を見ている美人⇒夢見る美女。ここでもそうだが、結構英語のプロでもよく間違えるので充分注意のこと。
改訳「この男にはあるのではないかと考えて、他人をはらはらさせるものがある」

原文:p576
A penny for your thoughts?
Now, if there is one phrase in the world I cannot abide, it is this. It gives me an actual physical pain in the chest and I begin to cough.
旧訳:p318 〇
なにをうすぼんやり考えていらっしゃるの?
この世の中に、私をゾッとさせるほどいやな言葉があるとすればこれだ。ほんとに胸のあたりが疼いてくる。だから咳がでた。
新訳:p47 〇
何を考えているのか教えてくれたら1ペニーあげてもいい
私にとってこの世にひとつ我慢のならない慣用句があるとしたら、それがこの慣用句だ。これを聞くと実際に胸が痛み、咳が出そうになる。
意見:
直訳は「貴方の考えていることと交換に1ペニーを差し上げるのは如何?」。
意味を採るか、慣用句をそのまま訳すかの違い。新旧訳とも、感じはでているからこれでよいだろう。

原文:p578
He had a small pointed beard and thrilling blue eyes, and he wore a black velvet jacket.
旧訳:p321 〇
彼はちいさな尖った髭をはやし、心にしみるようなブルーの眼、それに黒いヴェルベットのジャケットを着てたの。
新訳:p50 〇
とがった小さな顎ひげと口ひげを生やしていて、眼はぞくぞくするようなブルーで、そのときは黒いヴェルベットのジャケットを着てたわね。
意見:
smallとかlittleは意味範囲が広くて、本当に難しい。このsmallは(1)背丈が低い (2)量が少ない、のどちらとも取れそうだ。beardは、新訳のように範囲は広いが、顔の特徴としてあえて訳すか、さらっと流すかは判断。これで新旧訳ともよいが、「短く刈り込んだひげ」くらいにするともっと自然か。

原文:p579
‘I told him I would if I’d gone to him for ear-  ache. That made him laugh. But he kept on at me about it and I must say he was very convincing, so after a while I gave in and that was that.
旧訳:p323 〇
耳が痛くてお医者さんに行ったら、わたし、お断りしますわ、って言ったら、あの人、笑ってしまったわ。でも、あまり彼が言うものだから、とても説得するのが上手なの、とうとうわたし、負けてしまって、承知しちゃったの、それで、そういうふうにきまったのよ。
新訳:p53 △
わたしは言ったわ。耳が痛くてお医者に行ったのなら、言い張りますけどって。彼は笑ったわ。でも、それでもこのことはそのあとも訴えつづけた。彼のことばにはとても説得力があったわ。それは認めなくちゃね。で、しばらくすると、わたしとしても根負けしちゃったのよ。そういうことね。
意見:
新訳の下線部、誰が主体なのか分かりにくい。二度読みしてしまう。また「言い張りますけど」は大げさだが、これに合わせるなら訳も硬くして⇒「執拗に迫ってきた」。

原文:p591
―that everybody was up in arms, that all of them, all my old and loving friends were saying the most terrible things about me and had sworn never never to speak to me again. Except her, she kept saying. Everybody except her. And didn’t I think it would be rather cosy, she asked, if she were to come down and stay with me a few days to cheer me up?
旧訳:p348 〇
―みんな、すっかり憤慨してしまって、だれもかれも、古い昔からの親友にいたるまで、この私については実に聞くにたえないようなことを言っていて、もう私には絶対に口をきかないと言っているというのだ。ただあの女をのぞいてはね、とポンソンビイはなんども念をおすのさ。あの女のほかの人たちはみんなね、とこうなのだ。それで、もしあの女が私を元気づけるために、私のところへやって来て、二、三日泊まっていったら、たいへんいいんじゃないか、そう私にきくのだ。
新訳:p81 〇
全員が、愛すべき長年の友人たち全員が、私についてとことんひどいことを言い、私とは誓って二度と口を利かないと言っているのだという。わたし以外はね、と彼女は繰り返し言った。わたし以外の全員は、と。さらに、そっちへ行って何日か滞在し、あなたを元気づければ、お互い心が和むと思わないか、と。
意見:
Sheを、旧訳はジャネット、新訳はポンソンビー、ととっているようだ。私もこの箇所何度も読んだが、どちらともとれそうだ。あとは読者がどう感じるかだが、私はジャネットに来てもらったら、主人公の心も安らぐほうをとりたい、ポンソンビー(そもそもこの出しゃばり女のせいで、事件は起きたのだ)とは一緒にいても嬉しくないだろう。文法的にどちらかになるという判断があれば、ご教示いただきたい。


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