2020年6月号 柴田耕太郎

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ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。
旧訳が田村隆一、新訳が田口俊樹による『あなたに似た人』。いずれも早川書房刊。

『音響捕獲機』 The Sound Machine
クロスナーは音のフェッチ。人間に聞こえない音域に興味を示し、それらの音を感知する機械を作った。花を切るたびに、何か叫びのような音が捉えられる。本格的に試そうと、公園に出て、大きな木の枝を斧で裂いてみた。とその時、ものすごい叫び声とともに、裂けた木の枝が音響機械を押しつぶしてしまった。今となってはあれが植物の叫びだったのか空耳だったのかわからない。クロスナーは大人しく家路につくのだった。

原文:p561
IT WAS A WARM summer evening and Klausner walked quickly through the front gate and around the side of the house and into the garden at the back. He went on down the garden until he came to a wooden shed and he unlocked the door, went inside and closed the door behind him.
旧訳:p283 △
ある、むしむしする夏の夕方、クロースナーはいそぎ足で、正面の門をとおりぬけ、その家の横手をまわって、うしろの庭の方へと入っていった。庭へおり、木造の小屋のところまでやってくると、中に入ってドアをしめた。
新訳:p9 △
夏の暑い夕方のことだった。クロースナーは足早に門を抜けると、家の脇にまわり、裏庭まで歩いた。さらに裏庭を突っ切って木造の小屋まで行くと、鍵を開けて中にはいり、ドアを閉めた。
コメント:
warmは、of or at fairy or comfortably high temperatureで、温度は17~27度ぐらい。日本人の「温かい」感覚とはちょっと違う(温かい夏、というのもヘン)。たぶんこの小説の舞台英国であれば湿度も低いはず。訳語を変えないと誤解される。Shall I compare thee to a summer’s day. Thou beauty is more modest and more temperate.(君を夏の一日に例えようか、君の美はもっと優しくもっと穏やかだ:シェークスピア、ソネット)というように、あちらでは夏が親しげなのだ。ちなみにイギリスの夏は、5,6,7月。A Midsummer Night’s dream『夏の夜の夢』(シェークスピア)は、夏至のお祭りを描いたものだ。昔は『真夏の夜の夢』と題されることが多かったが、これだとお盆のころのジーッとしていたたまれない暑さをイメージしてしまう。
coolはだいたい『涼しい』と訳すが、3度から17度までと幅広く、日本人だと肌寒い感じに近いこともある。
薄明り(twilight)というと、図書館などで日本人なら照明が欲しいところだが、ヨーロッパでは皆平気でそのまま本を読んでいる。
語感と体感は国によって微妙に違い、誤訳につながる恐れがあるのでご注意。
修正訳:心地よい夏の夕暮れ
なお、旧訳「正面の門」(そんな立派な家か?)「その家の」(自宅のことだろう)「うしろの庭の方へと入っていった」(位置関係がわかりにくい)「庭へおり」(階段でもあるのか?)はよろしくない。

 

原文: p561
Yes … Yes … And now this one … Yes … Yes. But is this right? Is it ― where’s my diagram?
旧訳:p284 〇
よし…ようし…さあ、こんどはこいつだ…よし…よろしい…おっと、これでいいのかな?こいつは、と…おや、おれの図表はどこかいな…
新訳:p10 〇
よし…よし…じゃあ、次はこっちだな…よし…よし。ううん、これでいいのかな?ええっと、図面はどこにいった?
コメント:
前のくだりで、「紙を手にとってから、脇に置いた」とある。だとすると、紙に書いた図面と、実際の機械の中身を見比べて点検している、と読みたい。
where=in the place in which。
It is in the place.(it=this=つまみかダイアルのこと)
My diagram is in the place.
「図面のどこだ?」としたいが…。
where以下が疑問文であること、diagramがthe placeにある、と読むのは無理。
ちょっと前に脇に置いたばかりの図面を探すというのは不自然だが、原文にそう書いてある以上致し方ないか。新旧訳のママとする。他に読み方あれば教えてください。

原文:P561
It was Scott. It was only Scott, the doctor.
旧訳:p284 △
スコットだった。なんのことはない、お医者のスコットだ
新訳:p10 ×
スコットだった。なんのことはない。ただの医者のスコットだ
コメント:
両訳とも「単なる」の意味にとってるようだが、このonlyは強調「まさにその…」。
修正訳:お医者のスコットじゃないか。

原文:p564
I would even hear the correct note ― F sharp, or B flat, or whatever it might be ― but merely at a much lower pitch. Don’t you understand?
旧訳:p290 △
そう、正確な音調までききとれるはずなんだ―FシャープとかBフラット、あるいはその音がなんであろうとね―しかし、ただ非常に低い音調になってきこえてくるのですがね。おわかりになりますか?
新訳:p17 △
音階まではっきりと聞き分けることができます。Fシャープとか、Bフラットとかね。ただ、聞こえるのは実際の音よりずっと低い音ですけど。わかりません?
コメント:
両訳のようにも言うのかもしれないが、音楽用語でsharpは「嬰音の」、 flatは「変音の」。
それっぽく言った方が説得性があるだろう。
修正訳:嬰ヘ調とか変ロ調


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