2020年4月号 柴田耕太郎

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ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。
旧訳が田村隆一、新訳が田口俊樹による『あなたに似た人』。いづれも早川書房刊。

『願い』THE WISH
少年は家の広い玄関ホールを南の海、そこに敷かれたまだら模様のカーペットの黄色部分を島に見立て、階段の下から島伝いに玄関まで、飛び移る一人遊びをする。黒い部分は海の深淵、邪悪なワニが口をあんぐり開けている。伝い損なえば、自分の命がないのだ。初めのうちはうまくいったが、真ん中あたりで大きな海峡を越えねばならなくなった。エイヤッと飛び越そうとした刹那、足の半分が黒い深淵を踏んでしまった。危うし、少年!と、その時、遠くで自分を呼ぶお母さんの声がした。

新旧訳とも、全体的によくできている。特に新訳の書き出しは上手で、先を読もうかという気にさせる。これは商品としての翻訳において重要だ。
(原文p542)
UNDER THE PALM of one hand the child became aware of the scab of an old cut on his kneecap. He bent forward to examine it closely. A scab was always a fascinating thing; it presented a special challenge he was never able to resist.
(新訳p257)
膝小僧の傷がもうかさぶたになっているのが手のひらに感じられる。少年は膝に顔を寄せ、かさぶたをとくと眺める。かさぶたにはいつも心を惹きつけられる―絶対に逆らうことのできない特別な誘惑。
(旧訳p237)
片手のてのひらに、少年は膝小僧の上にある古い傷のかさぶたを感じた。もっとよく調べてみようと、少年はうつむいてみた。かさぶたはいつでも面白いものだと思う。おさえることのできない、へんてこな誘惑にかられるのだ。
(コメント)
下線部分、直訳すれば「かさぶたは自分が抑えられないとりわけの挑戦心を引き起こした」。意訳すれば「かさぶたは(自分がそれに対し)挑んでみようという特別な気を催させる材料だ」といったところだろうが、こうした理屈っぽい訳より、気分を映した上記の訳のほうが、すんなり読み進んでゆけるだろう。

今回は間違いではないが、ほかにも取れそうな箇所、をいくつか挙げ、読者の便宜に供したい。
(原文p542)
He got to his feet and climbed higher up the stairs to obtain a better view of this vast tapestry of colour and death.
(旧訳p238)
少年は立ちあがると、階段を上へ上へとあがった。色あざやかなつづれ織りの模様を、いや、死の景色を、もっとよく眺めてみたいと思ったからだ。
(新訳p258)
少年は立ち上がる。階段をのぼり、もっとよく見える場所から、色彩と死の織りなすこの巨大なタペストリーを眺める。
(コメント)
名詞1(A) and 名詞2(B)の形。
前後が対等で並列ととるのが普通。直訳すると「色彩と死のタペストリー」としたいが、違和感がある。「色彩」と「死」は範疇が異なり並列しにくいからだ。
新訳「色彩と死の織りなす…」は「of以下の性質を有する…」ととってうまい訳語でまとめた。
旧訳「…いや、死の景色を」は意訳として許される範囲だろうが、andを言い換えにとるのは無理。andには、付加的に続ける意味があり「それも」「もっといえば」との訳語が当てはまることがある。だが、A>Bと意味を狭める際の訳語である。ここはAとBが異種のものであるから当てはまらない。
ちょっと気取った表現法だが、ギリシア語由来のヘンダイアディス(二詞一意)というのがある。A and Bにおいて、Aを形容詞的にBに掛ける、または逆にBをAに掛けるというもの。ここにそれをあてはめれば「死の色をしたタペストリー」となろうが、文脈からしてふさわしくなさそうだ。

(原文p543)
He was quite breathless now, and so tense he stood high on his toes all the time, arms out sideways, fist clenched.
(旧訳p240)
いまは息をすることもままならぬほど、心をはりつめて、ずっと爪先立ちしながら、少年は両の腕を両側につき出し、そのこぶしを、グッとにぎりしめていた。
(新訳p260)
そこでまた一息入れる。もう息ができないほどになっている。今もまだ爪先立ちをしている。
(コメント)
両訳ともこれでよいが、いささか補足する。on ones toesは(1)爪先立ちで (2)緊張して、の二義がある。ここはどちらともとれそう。(2)にとるとtenseとon the toesが同じ意味が続きおかしい、と考え、両訳とも(1)にしたものと思われる。だが前を「(気持ちが)昂ぶる」「神経過敏で」などとすれば、後は「緊張して」でもおかしくないだろう。逆に「爪先立ち」とすると、何でという疑問がわく。今いるところはそれほど狭い場所でもなく、爪先立ちしてここに至ったわけでもないのである。
このように、理屈で考えると矛盾したり分からなくなったりすることは、実はとても多い。
国語でも文を克明に読み解こうとして、どう解釈したらよいか迷う箇所がでてきた経験は皆さんお持ちだろう。しょせん言葉なのだ。ある程度まで分析し、それから先はカンとか気分で読むのも必要なことである。

(原文p542)
He got a nail underneath it, and when he raised it, ….
(旧訳p237)
爪をその下に入れ、そうっと、そうっとあげてみたら、…
(新訳p257)
かさぶたの下に爪を入れる。ほんの少し持ち上げただけで…
(コメント)
両訳ともよくぞ間違わなかった。まあ「下で爪を得る」と読むのは可笑しいから自然と正訳になったのかもしれないが。理屈はこういうことだ「getに限らず)動きのある動詞+名詞1+前置詞+名詞2では、動詞は前置詞の先を目指して動く」。ここなら「爪を動かす⇒かさぶたの下に」。では「その下で(から)爪を得る」は如何に――from underneath itとすればよい。


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