2020年2月号 柴田耕太郎

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ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。
旧訳が田村隆一、新訳が田口俊樹による『あなたに似た人』。いづれも早川書房刊。

『毒』Poison
インド、ベンガルにて。私が夜遅く、仮寓しているバンガローに戻ると、相棒のハリーが部屋の灯りをつけたままベッドで身動き一つしないでいる。毒蛇がシーツの折り返し部分に入り込んだままなのだという。私はインド人医師ガンバルディを呼んだ。医師は考えた末、クロロフォルムをシーツの間に充満させることにした。精密で緊迫する作業。もう安全だと思われる15分後、シーツを用心深く剥がしたが、毒蛇はいない。安心するやら呆れるやら…。


原文:p533
‘See it, it’s still there. It went under that. I could feel it through my pyjamas, moving on my stomach. … ’
旧訳:p217
「見ろよ、ヤツはまだそこにいるんだ。ヤツはシーツの下をはっていった。ヤツが股のあたりをうごめうているのが、パジャマを通して、おれにもわかったんだ。…」
新訳:p235
「見えるだろ、折り目はまだそのまま残ってる。その折り目の下にもぐったんだ。パジャマを通して感じられた。腹の上をそいつが這って進むのを。…」
批評:
itは毒蛇、thatはa fold in the sheet。
旧訳「シーツの下をはっていった」だと、「掛けシーツと自分の身体の間」ととれてしまう。「股のあたり」はご愛嬌。いずれも新訳が正しい。


原文:p534
‘Don’t move and don’t talk any more unless you have to. You know it won’t bite unless it’s frightened.’
旧訳:p218
「必要以外のことはもう喋るな、動いちゃだめだぞ、おびえなけりゃ、噛みつきゃしないんだからな。…」
新訳:p236
「…。それから、どうしても必要でないかぎり、これ以上もう話すな。知ってるだろ?怖がらせなければヘビは咬まない。…」
批評:
旧訳「おびえなけりゃ、噛みつきゃしない」は「おびえ」と「噛みつく」の主体があいまい。二度読みさせるのは読者に不親切。新訳のようにしてほしい。


原文:p535
That business of the mouth, I didn’t like that. Or the way he talked, either.
旧訳:p221
もう口で、どうこう言うのはいやだった。ましてや、彼が喋るように話すのは大儀だった。
新訳:p239
彼の口元の動きが気になったのだ。さらに言えば、彼の話し方も
批評:
どうして旧訳のような訳が出るのか不思議。このbusinessは「在りよう、様子、仕草、関わり」といった感じ。相手の口の動かし方と話し方がどうも「嫌な感じ」なのだ。新訳はこなれている。


原文:p538
He began to pull a little piece of sheet out from under the mattress. He was working directly in the line with Harry’s stomach, about eighteen inches from it,
旧訳:p226
彼はシーツのはしきれを、マットレスの下から抽きだして、ハリイのオナカと一直線になるように、そこから十八インチほどのところまで動かした
新訳:p245
ガンデルバイはシーツをつまむと、マットレスの下から引っぱり出しはじめた。ベッドで言えばハリーの腹があるのと同じ位置、彼の腹から十八インチほど離れたところのシーツを引っぱっていた
批評:
旧訳では情景を復元できそうにない。新訳の理解はあっているようだが、ちょっと分かりにくい。西洋のベッドメーキングではシーツはきっちりマットレスに折り込まれている。の一部を引っぱりだし、出来たマットレスとの間の空間にチューブを挟み込んでゆくのだ。
作業した⇒ハリーの胃部と一直線⇒胃部から18インチ離れたところで、と読む。毒蛇がいるのでこわごわ仕事をしている様子が目に浮かぶ。
修正訳「そしてハリーの胃の位置からまっすぐ18インチ離れたところで作業した」


原文:p540
A little farther and I saw a button, a mother-of-pearl button, and that was something I had never had on my pyjamas, a fly button, let alone a mother-of -pearl one.
旧訳:p230
やがて、ボタンが、真珠母貝ボタンが見えてきた。そのつぎにあらわれたものは、真珠母貝のボタンはさておき、私のパジャマにはついぞつけたことのないもの、フライ・ボタンだ
新訳:p250
さらにそのあとボタンが見えた。真珠貝のボタン。私自身は自分のパジャマにつけられているところなど一度も見たことがない代物だ。パジャマの前ボタンそれ自体見たことがない。真珠貝など言うに及ばず。
批評:
fly buttonは、穴あき式の前ボタンのこと。mother-of-pearl buttonは、真珠を使った(またはイミテーションの)ボタン。let aloneは、…どころか。
that=a button。somethingは、「何か」だが「重要なもの」を含意。そのsomethingの具体例がa fly button, let alone a mother-of-pearl one。a mother-of-pearl buttonはa fly buttonの中でもおしゃれなもの。
言いたいのは「そもそも私は真珠貝どころか前ボタン自体パジャマには着けたことがない」ということ。新訳を修正すれば「…。パジャマの前ボタンそれ自体お呼びでない。ましてや真珠貝を使ったものなど」


原文:p541
‘All he needs is a good holiday,’ he said quietly, without looking at me, then he started the engine and drove off.
旧訳:p233
「いや、あの人に必要なのは充分に休息をとることですよ」
新訳:p253
「せいぜい一日ゆっくり休んでもらうことです」
批評:
holidayはaとあっても、複数を含意することが多い。ここもそうとった方がいいだろう。
一つをはっきりさせたいならoneを使っただろう。
旧訳はOK。新訳は「一日」をトル。


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