2020年1月号 柴田耕太郎

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ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。
旧訳が田村隆一、新訳が田口俊樹による『あなたに似た人』。いづれも早川書房刊。

『皮膚』Skin
うらぶれた初老の男がパリの高級商店街を歩いてゆく。ふと眼にしたショーウインドーのに見覚えのある絵が飾ってあった。若い頃、共に暮らした無名の画家の作品だ。フラフラと店内に入ると支配人に見とがめられる。自分はあの作品を描いた画家の友人だ、その証拠にと諸肌脱いでみせる。背中にはまごうかたなく当の画家の作品が描かれていた。商品価値を認めた顧客の一人が言葉巧みに、南米の海岸で好きにホテル暮らしをしてくれ、時々その背中の絵を海岸で観光客に披露してくれればいいから、と誘う。その気になった老人は男についてゆく。それから数か月。当の観光地で、くだんの画家の例の絵が売りに出された。初老の男の背中からどうはいだのか、男はその後どうなったのかは、誰も知らない。

新訳は良くできている。直すところはほとんどない。だが、勉学のために、細かく見てゆく。
原文:p518
He moved on glancing without any interest at the things in the shop windows ― perfume, silk ties and shirts, diamonds, porcelain, antique furniture, finely bound books.
旧訳:p179 ×
彼は歩きつづけた。店のウインドウにある数々の品物を、興味のない眼で、とおり見ながら―香水、絹のネクタイ、シャツ、ダイヤ、焼物、骨董品、豪華な本など
新訳:p195 
そのまま歩きつづけ、店のショーウィンドウに並ぶものに別に興味を持つでもなく、ただ眼を走らせた。香水、シルクのネクタイにシャツ、ダイアモンド、磁器、アンティークの家具、凝った装幀が施された書籍
批評:
ここの並列は1, 2, 3, 4, 5, 6。2=silk ties and shirts=silk (ties and shirts)。旧訳は、(silk ties) and (shirts)と読んでいる。これだとandの後で列挙終了してしまう。

原文:p518
‘And I have made nothing. We can celebrate that also.’
旧訳:p182 △
「それから、ぼくは一文ももうからなかった。これも一緒に祝杯をあげようね」
新訳:p198 △
こっちは一銭も稼げなかった。それも祝おう」
批評:
「今日は儲かって金があるからお祝いしよう」との友人に、絵描きである相棒が合いの手を入れる言葉。
make nothingは多義だが、意識の流れからして「こっちは全然描けなかった」ととるのがよいだろう。

原文:p518
But it was evening now and he was wealthy as a pig, and in the parcel there were three bottles ― one for his wife, one for his friend, and one for him.
旧訳:p181 △
しかし、もう夜だし、それに豚のように金持ちだった。包みのなかには酒の瓶が三本――女房のために一本、友だちのために一本、そしておれのために一本さ――入っていた。
新訳:p199 △
とはいえ、今はもうすっかり夜もふけ、豚みたいに金持ちになって、おまけに包みにはワインが三本はいっている。一本は妻のため、一本は友人のため、一本は自分のためだ。
批評:
豚と金持ちの喩えがしっくりこず、読者に不親切。as a pigは「とても」の意味。「とても豊かになっていた」ぐらいか。

原文:p526
Then had come the second war, and Josie being killed, and the Germans arriving, and that was the finish of his business.
旧訳:p198 
そのあと、第二次世界大戦になって、ジョシーは殺され、ナチがやって来て、彼の商売はあがったりになってしまったのだ。
新訳:p215 
そのあと二番目の戦争が始まり、ジョシが殺され、ドイツ人がやってくると、ドリオリは商売をたたまざるをえなくなった。
批評:
受身形で動作主が示されていない場合の訳に注意。killedは過去分詞形の形容詞ととるのがよい。「誰に」というのでなく「戦争という事態のせいで」と読むのが順当。「ジョシが死に」。

原文:p528
‘But you are perhaps not very robust, no?’
旧訳:p204 ×
「しかしまだまだ元気らしいな。見たところは、え、どうです?」
新訳:p221 
「でも、あなたはそれほど丈夫というわけでもなさそうだ。ちがいますか?」
批評:
学校文法で、perhapsは頻度50%以下と習うが、実際にはここもそうだが語調の緩和に働き「たぶん」の意味で使われることが多い。not very robust(あまり元気じゃない)ではあからさまなので、前にperhapsを入れたのだ。旧訳は、perhapsを準否定語ととり、notと呼応した強い肯定ととってしまったのか。新訳が正しい。

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