2019年12月号 柴田耕太郎

PDFでダウンロード

ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。
旧訳が田村隆一、新訳が田口俊樹による『あなたに似た人』。いづれも早川書房刊。

『韋駄天のフォクスリイ』GALLOPING FOXLEY
主人公は初老の紳士。毎日列車でロンドンの事務所に通っている。ある日から、見なれぬ男が通勤に加わり、あろうことか自分の定席の向かいに座を占めた。古い記憶を引き戻してみると、中学時代同じ寮で生活をし、自分をたっぷりいじめてくれた上級生だった。あの時の辛い思いをちくちくと思い出として話し、いたぶってやろうと声をかけた。ところが…人違いであった。

原文:p506
Then I sort of froze up and staring at him for at least a minute before I got hold of myself and made an answer.
This is a smoker,’ I said, ‘so you may do as you please.’
旧訳:p157
私はゾッとすると、すくなくとも一分ぐらい、その男の顔を、穴のあくほど、見つめたまま、坐っていたのだ。それからやっと我にかえって、答えたものだ。
私だって煙草のみですよ。どうぞお気がねなく」
新訳:p171
そのあとは凍りついたようになって、少なくとも一分は彼を凝視してから、ようやく自分を取り戻して答えた。
喫煙車ですからご遠慮なく」
批評:
最初の下線。両訳ともat leastに引っ張られa minuteを「一分」としているが、そんな長い間相手を凝視することはあるまい。「しばらく」の意味だろう。at leastは強調ととる。「しばらくまじまじと」といった感じか。
二つ目。旧訳はthisを取り違えている。「私」ではなく「この車両」のこと。

原文:p507
I can’t say I’ve ever had an actual conversation with him before―we are rather a reserved lot on our station―but a crisis like this will usually break the ice.
旧訳:p158
といって、これまでに会話らしい会話をかわしたことはなかった―この駅では、二人ともひどく内気な人間だったからだ―しかし、このような危機に直面したら、だれだって打ちとけるものだ。
新訳:p172
グルミットとは二十八年以上同じ電車で通勤している。しかし、会話らしい会話をしたことはそれまで一度もなかったと思う―われらが駅ではみな互いに距離を取り合っているようなところがあった―しかし、こうした危機がきっかけになって堅苦しさが取れるというのはままあることだ。
批評:
lotは「奴、輩、人」。reservedは「内気」でなく「控え目な」。やたらに馴れ馴れしくしない、イギリスのインテリなのだ。weは「二人」でなく「この郊外の小さな駅で通勤列車に乗る人たち」ととったほうがよいだろう。旧訳は不可、新訳はOK。

原文:p510
They were pointed shoes, and it was my duty to rub the leather with a bone for fifteen minutes each day to make it shine.
旧訳:p163
先のとんがった靴で、それがピカピカになるまで、毎日骨でみがくのが、私の役目の一つだった。
新訳:p179
骨を使って、先の尖ったその靴を毎日十五分磨いて艶を出すのも私の仕事だった。
批評:
「骨でみがく」とはどんな靴なのかと思ってしまう。boneを辞書で丁寧に引いてゆくと、=bone white[骨白色、ボーンホワイト(灰色がかった白など)]とある。これがaと可算名詞化され「白系の靴墨」ととるのが順当だろう。

原文:p516
‘I’m glad to meet you,’ he said, lowering the paper to his lap. ‘Mine’s Fortescur―Jocelyn Fortescue, Eton 1916.’
旧訳:p176
「いや、お目にかかって、こんなにうれしいことはありません」と、相手は新聞を膝におくと言った、「私、フォーテスキューと申します、ジョスリン・フォーテスキュー。イートン校、一九一六年の卒業です
新訳:p192
「どうもご丁寧に」と彼は言って、新聞を膝の上におろした。「私はフォーテスキュー。ジョスリン・フォーテスキュー。イートン校、一九一六年入学
批評:
この前に主人公が自分を紹介し、― and I was at Repton in 1907.と言っている。inは入学年度を示すととってよいだろう。Eton1916はinが省略されたものととる。

ページトップへ