2019年11月号 柴田耕太郎

PDFでダウンロード

ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。
旧訳が田村隆一、新訳が田口俊樹による『あなたに似た人』。いづれも早川書房刊。

2019年11月号
『海の中へ』DIP IN THE POOL
大型客船で船旅を楽しむボティブル氏は、船長主宰の「一昼夜航続距離当てオークション」で一儲けをたくらむ。船長が予想した航続距離515マイルに対し、マイナス10マイル未満に入れ札したのだ。荒天のゆえの予想だったが、翌日の海は鏡のように静か。船を遅らせるため、ボティブル氏は救助を当てにして海に飛び込むが、甲板にいて助けを求めてくれるものと当てにしていた老女が、何故か反応を示さず、ボティブル氏は溺れ死ぬ運命に…。

今回は大きなミスはないので、こまかい箇所をいくつか取り上げる。

原文:p495
He glanced around with approval at the remainder of his flock who were sitting quiet, looking complacent, their faces reflecting openly that extraordinary pride that travelers seem to take in being recognized as ‘good sailors’.
旧訳:p131
…とつぶやきながら事務長は、そこにふみとどまった連中をグルッと見まわした。彼らは、“船に強い”とみとめられたりすると、よく旅行者がしめす、あの法外な自慢の色をあからさまに顔に出して、大満悦といった様子で、悠然と椅子に腰をおろしているのだ。
新訳:p143
パーサーはそう言って、テーブルに残っておとなしく坐っている人々を称賛するように見まわした。みなそれぞれ悦に入った顔をしており、その顔には独特の誇りがあからさまに表われていた。“すぐれた水夫”と見なされることにどんな旅行者も覚えるらしいあの独特の誇りだ。
批評:
翻訳の初歩で、a bad sailorは「悪い水夫」でなく「船酔いする人」だと習うことが多い。
一義だけ覚えていてはダメという誡めなのだろう。
その通りだが、「お粗末な水夫」の意味もある、と知れば翻訳中級者。
a good sailorも(1)船酔いしない人 (2)立派な水夫、の二つある。
ここはどちらでもよいだろう。暗喩か具体化の違い。
that extraordinary pride that … で、前のthatは「先行詞を予告するthat」。指示性は少ない、といわれる。お互い、ぼんやりと了解されている事柄であって、わざわざ「あの…」と訳す必要がないことが多い。だが、ここは両訳のように入れた方がよいだろう。「あの」と入れないと、かえって強調されてしまう。語調・語感というものの妙。

原文:p497
The pool, he was telling himself, would probably be around seven thousand dollars.
旧訳:p135
賭金は、まあ七千ドル内外だろうと、彼は自分に言ってきかせた
新訳:p148
賭け金の合計はたぶん七千ドルぐらいになるはずだ、とボティボルは自分に言い聞かせた
批評:
ともに「自分に言い聞かせる」で正しい。
紛らわしいイディオムをいくつか。
say to oneself:心のなかで言う
talk to oneself:ひとりごとを言う
think aloud:考え事を声に出す
mutter:つぶやく
grumble to oneself:ぶつぶつ云う

原文:p499
The auctioneer had a pink bald head and there were little beads of sweat sparkling on top of it.
旧訳:p138
競売人のピンク色の禿げ頭には、汗のシズクが光っていた。
新訳:p152
競売人は禿げ頭の男だったが、そのピンク色の頭のてっぺんが小さなビーズのような汗で光っていた。
批評:
色は民族、地域によって感じ方が違い、訳すのに注意が必要。
若い頃、外国映画の日本語版台本を書いていた。フランス映画で、どう見ても青(blue)なのに画面の台詞では緑(vert)と言っている。ヨーロッパでは緑が青の上位概念(feu vert《日本語で青信号のこと》)、日本語ではその逆(青りんご《実は緑》)なのが分った。pinkは日本語では性的な連想が強いが、英語では赤ちゃんの肌の連想から、健康・活力を表わす。日本語では「赤」と訳すとよい場合も多い。例*She turned pink with shame.恥ずかしさで赤くなった。

本文の場合、「血色がいい」のか「赤ら顔」なのか「酒が入っている」のか分らない。両訳とも致し方ないか。
ページトップへ