2019年9月号 柴田耕太郎

PDFでダウンロード

ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。

旧訳が田村隆一、新訳が田口俊樹による『あなたに似た人』。いづれも早川書房刊。

2019年9月号
『兵隊』THE SOLIDIER
夜だ。すべてが憩える夜。だが俺はイヌを連れて散歩に出ている。頭の中を、いろいろな思い出が駆け巡り、現実と夢幻の境も定かでなくなってくる。足の裏にとげがいつの間に刺さったのはいつのことだったろうか。そんな嫌な思い出より幼い日の海辺での楽しい日々を思い起こそうか。家へ帰ってみると、さっきと様子が違う。玄関の鍵の位置が逆、二階に上がると妻でなさそうな女が寝ている。確かめるためぐっと近づくと、女はいきなり平手を俺に食らわせて、階下にいそぎ警察に電話し始めた…。

原文:p473
Tomorrow was worse than today. Tomorrow was the worst of all because it was going to become today ― and today was now.
旧訳:p81 ×
明日は今日よりも悪い。明日が今日になるだけに、いちばん悪いぞ―いまは今日だが。
新訳:p88 △
明日は今日よりも悪い。あらゆるものの中で明日が一番悪い。明日はやがて今日になるのだから―今である今日に。
批評:
昨日も今日もまた明日もうんざりする日が続くことを強調的に叙しているのだろう。新旧訳とも意味は捉えているが、ちょっとわかりにくい。難しいところだが「明日は今日より悪い。明日は最悪だ。だってまた今日になるから―このやりきれない今日に」ぐらいでどうだろう。

 

原文:p474
‘Take it out,’ he had said. ‘You can poison someone like that.’
旧訳:p83 △
「抜いてくれ」と彼は言った、「こんなことをしては、おまえは人をだめにしちゃうんだよ」
新訳:p89 〇
「取ってくれ」と彼は言った。「こういうことで体に毒がまわって死ぬこともあるんだぞ」
批評:
このcanは論理的可能性「…しかねない」。poisonは(1)…を毒殺する  (2)…に毒を盛る (3)…を害する、のうち(1)か(3)。新旧訳はだいぶ違うが、まあどちらもよいのではなか。

 

原文:p474 
It is not of the least importance, you understand, but it would be interesting to know why.
旧訳:p84 〇
そう、ま、どうでもいいようなことだけど、その原因を知るだけの値打ちはある。
新訳:p91 △
しかし、そんなことはちっとも重要ではない。あなたにもわかると思うけれど。それでもなぜなのか。その理由には興味が惹かれる。
批評:
not of the least importanceは、not the least importantの変形。(1)ちっとも重要でない (2)きわめて重要だ、の真逆の二義があるので文脈に注意。ここは(1)。新旧訳とも正しくとらえている。you understandは単なる合いの手。「…ね」とか「でさあ」といった軽い感じ。新訳はこの種の言葉を、重く訳そうとする癖がある。

 

原文:p475
Green and blue-green and blue; and sometimes ― sometimes slowly swimming like colours seen through the heat-haze of a brazier.
旧訳:p86 〇
グリーン、ブルー・グリーン、ブルーと変ったり、時によっては、あの火鉢の、熱気をとおして見るような、ちょうど旗がゆらめいているように見えてくるのだ。
新訳:p93 〇
緑や青緑や青。そしてときには―ときには火鉢から立つかげろう越しに見ているかのように、色がゆっくりと宙を泳いでいることがある。
批評:
coloursの解釈。旧訳は不可算名詞の可算名詞化で「旗」ととり。新訳は素直に「諸色」としている。どちらもよいだろう。

 

原文:p478
At the top he took an extra step that wasn’t there; but he was ready for it and there was no noise.
旧訳:p90 〇
階段をのぼりきったところで、もう段もないのに一歩余計にふみ出してしまったが、そういうことには注意していたので、音をたてるようなことはなかった。
新訳:p98 〇
一番上の段まで来たところで、実際にはない踏み板を上がろうとして空足を踏んだ。それでも、それは予期していたことで、音をたてることはなかった。
批評:
新訳の「空足」は上手い。

 

原文:p480
And a long silence now, the man standing erect, motionless, the woman sitting motionless in the bed, and it was so quiet suddenly that through the open window they could hear the water in the millstream going over the dam far down the valley on the next farm.
旧訳:p94 〇
ながい沈黙がやってきた。男は直立不動の姿勢で立っている、女も身動きひとつしないで、ベッドに坐ったままだ。急に静かになったものだから、水車堰の水がダムをこえて、農場につづく谷へと流れおちてゆくのが、ひらいた窓から聞こえてくるのだった。
新訳:p102 〇
さらに長い沈黙。男は身じろぎもせずに直立していた。女も身じろぎもせずベッドに坐っていた。いきなり静かになったせいで、水の流れる音が開け放たれた窓から聞こえてきた。水車用導入路の水が堰からあふれ、隣りの農場の谷に流れ込んでいるのだった。
批評:
英語の掛かり方は本当に難しい。直近のものに掛け、N(M1←M2←M3)かN(M1→M2→M3)が普通の読み方。だがM1M2 またはM2M3が一体に読めたり、M3がM1M2を越えてNに掛かることもある。論理と事実を照らし合わせ、訳が不自然でないように調整する。ここは新旧訳ともよいが、ほかの掛かり方も考えられるだろう。
*N=the water in the millstream(水車用導水路の水)
M1 going over the dam(ダムを越えてゆく)
M2 far down the valley(谷をずっと下った)
M3 on the next farm(隣の農場に)

ページトップへ