2019年8月号 柴田耕太郎

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ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。
先月から旧訳が田村隆一、新訳が田口俊樹による『あなたに似た人』。いずれも早川書房刊。

2018年8月号
『南から来た男』Man FROM THE SOUTH
ジャマイカの避暑地のホテル。プールわきで寛ぐ私の席の隣に小柄な老人とアメリカ海軍兵学校の練習生が腰掛ける。練習生自慢のライターを巡って、十回続けてライターが点くかどうかの賭けを老人が提案する。自分が負ければロールスロイスを渡す、でも練習生が負けたらその小指をいただく、と。ホテルの部屋でのこの賭けの最中、ひとりの中年女性が飛び込んできて、ロールスロイスは自分の持ち物、この男からは自分がすべてを賭けで取り上げたのだと、と言う。車の鍵を受け取るその女の手を見やると、指が一本しか付いていない…。

原文:p463
He was immaculately dressed in a white suit and he walked very quickly with little bouncing strides, pushing himself high up on to his toes with each step.
旧訳:p58 〇
彼は、一分のスキもない、真白なスーツを着て、足早に、一歩一歩、背のびしながら、はずみをつけるような足どりで、こちらへ歩いてくる。
新訳:p64 〇
一分の隙なく白いスーツを着こなし、一歩一歩爪先立って体を高くもたげるようにして、小さな歩幅でとてもすばやく、弾むように歩いて来た。
批評:
どちらも悪くない。旧訳はきびきびした一連の動きに重点、新訳は動作の逐一の説明に重点。high up on toがちょっと気になるだろう。on toは、(1)…の方に (2)…の上に、のうち(2)。例:jump onto(=on to) the table テーブルの上に跳び上がる
副詞(high up)+前置詞句(on to his toes)は、副詞で大まかな位置をいい、前置詞句で具体的な場所を示す。「上へ高く自らを押し上げる⇒自分のつま先の上に」が直訳。

原文:p463
He had on a large creamy Panama hat, and he came bouncing along the side of the pool, looking at the people and the chairs.
旧訳:p58 〇
大きなクリーム色のパナマをかぶり、あたりの人たちやならんでいるチェアの方を眺めたりしながら、プールのふちを、ピョコンピョコン、とびはねるようにして、やってくるのだ。
新訳:p65 △
クリーム色の大きなパナマ帽をかぶり、人たちとデッキチェアを見ながらプールサイドで跳ねていた。
批評:
新訳の「人たち」は不安定。校正ミスではないか。

原文:p464
Suddenly one of the American cadets was standing in front of us.
旧訳:p59 〇
と、私たちの前に、そのアメリカ人の士官候補生の一人が、突然、立ちはだかった。
新訳:p66 〇
気づいたときにはアメリカ人の練習生のひとりが私たちのまえに立っていた。
批評:
ここでは、平の水兵でないのが分ればよいが、正確にはcadetは「海軍兵学校生徒」。ちなみに陸軍は「士官学校生」。将校と下士官・兵は厳然と区別される。

原文:p465
‘No, no. I make you a very good bet. I am rich man and I am sporting man also. …
旧訳:p63 〇
「イヤイヤ、そうじゃない。ワタシはアンタにタイヘンイイ賭をしてあげたい。ワタシは金持ちです。おまけにワタシはなかなか話せる男だ。…
新訳:p69 〇
「いえいえ、私、いい賭けします。私、金持ちです。私、賭け好きです。…」
批評:
I make you a very good bet.はSVOO「Iはyouにa very good betを用意する」。a betは「賭け」そのものでなく「賭け金の対象」。練習生が1ドル賭けようと言ったのに対して、もっとよい賭けの対象物があると応じているところだ。怪しい英語を喋る人物の言葉としては、新旧訳のままでよいだろう。
sportingは、多義。(1)スポーツ好きな (2)堂々とした (3)賭博的な (4)冒険好きの。
新旧訳、ともに可か。

原文:p467
He had pale, almost colourless eyes with tiny bright black pupils.
旧訳:p67 ×
この男の眼ときたら、ほとんど無色といってもいい白眼と、キラキラ輝く、ちいさい黒い瞳だった。
新訳:p73 △
小男はほとんど色がないと言っていいほど薄い色の眼をしていた。その眼の中で小さな黒い瞳がきらきらと光っていた。
批評:
eyeは(1)広義で「眼の部分全体」 (2)中義で「瞳」 (3)狭義で「瞳孔」、のうちここでは(2)。pupilは「瞳孔」。日本語の「白目(眼)」は「眼の部分全体から瞳を除いたところ」。瞳が薄い色をしているが、その真ん中の瞳孔は黒く輝いているのだ。「この男の瞳の色は薄いくせに、その真ん中の瞳孔は黒く輝いているのだ」といったところ。

原文:p472
In the end they threatened to have him put away somewhere. That’s why I brought him up here.
旧訳:p76 〇
あげくのはてに、あの人、みんなから、監禁してしまうぞとおどかされたものですから、わたし、ここへあの人をひっぱってきたのですよ。
新訳:p83 〇
で、最後には精神病院かどこかにいれられそうになったんです。この人をここに連れてきたのはそのためだったのに。
批評:
threaten to doは「…するぞと脅す」。to以下は、have+目的語+過去分詞でご存知の使役用法。新旧訳とも構文は正しく掴んでいるようだが、何で訳がだいぶ異なるのか。put away(1)刑務所に入れる (2)捨てる、殺す、片づける、の解釈によるものだろう。

原文:p472
She looked up at the boy and she smiled, a slow sad smile, and she came over and put out a hand to take the key from the table.
旧訳:p77 △
女は青年を見上げると、微笑をうかべた。それはどこか、にぶい感じのする、悲しそうな微笑だった。女がこちらへやって来て、テーブルの上にある鍵をとるために、片手をのばした。
新訳:p84 △
彼女は顔を上げて若者を見やり、笑みを浮かべた。おもむろで 悲しい笑みだった。それからまえに出てくると、手を出してテーブルの上の車のキーを取った。
批評:
マイル、ロウ、アッド、マイルとご丁寧に4つも[s]の音を重ねているのがミソ。slowは「活気のない」、sadは「(他人に)悲しみを誘う」だが、slowはsadを引き立たせるためだけで大して意味はない。「鈍い感じ」も「おもむろで」もずれる。「なにか悲しげな」ぐらいがよいだろう。

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