2019年7月号 柴田耕太郎

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ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。
先月から旧訳が田村隆一、新訳が田口俊樹による『あなたに似た人』。いづれも早川書房刊。

2019年7月号
『おとなしい凶器』 Lamb to the Slaughter
メアリ・マローニは警察官の妻。日勤から帰宅した夫に突然、離婚を告げられる。呆然としたまま、食事の支度にとりかかろうとするが、窓際で外を眺める夫を見て、思わず持っていた羊肉の塊で撲殺してしまう。アリバイ工作に食料品店で買い物し、羊肉はオーブンに入れ、刑事たちの到着を待つ。自分に優しくしてくれる刑事たちに、夫が食べるはずだった羊肉を供するが、誰ひとり、これが当の兇器だったと疑うものはいない…。

原文:p454
There was a slow smiling air about her, and about everything she did. The drop of the head as she bent over her sewing was curiously tranquil.
旧訳:p37 〇
だから、彼女がなにをするのにも、そのまわりには、なにかしら心のあたたまる雰囲気がただよっている。時計を見てから、また縫物をつづけるために、うつむいた彼女の頭のあたりにも、いうにいわれぬ平安さがみちていた。
新訳:p41 △
そんな彼女には、ゆったりと笑みを浮かべているような雰囲気が漂い、ちょっとした仕種にもおだやかさが感じられ、手元の縫いものに眼を落とすその姿には不思議な静けさがあった。
批評:
smileには自動詞と他動詞があるが、ここは自動詞で「微笑みかける」の意味。それが分詞形容詞になってsmilingは「晴れ晴れした」。彼女の廻りに晴れ晴れした雰囲気がある、ということ。新訳は本人が微笑んでいるようで、ちょっとヘン。

原文:p454 
She loved to luxuriate in the presence of this man, and to feel ― almost as a sunbather feels the sun ― that warm male glow that came out of him to her when they were alone together.
旧訳:p38 〇
ちょうど、日光浴をする人が、太陽の光りを身に感じるような好ましさ。夫のからだから発散する男のあたたかさを、二人きりでいるときに感じないわけにはいかなかった。
新訳:p41 △
夫の存在を心で受け止め――日光浴をする人たちが太陽に感じるように――夫と一緒にいるといつも伝わってくる、男のあのぬくもりを感じるのが好きだった。
批評:
最初のthatは先行詞を予告し、関係詞が続くことを示すもの。互いに何となく了解されているものではあるが、「あの」「例の」といった強い指示性はない。新訳の「あの」は除いたほうがよいだろう。

原文:p456
Maybe, if she went about her business and acted as though she hadn’t been listening, then later, when she sort of woke up again, she might find none of it had ever happened.
旧訳:p42 〇
ああ、これは夢なんだわ、なにもきかなかったことにして、以前とおなじようにしていたら、いつか、ふと眼がさめて、ほんとになにもなかったんだと、気がつくのではないかしら。
新訳:p47 ×
何も聞かなかったことにして、普段の仕事をしていれば、そのうち眼が覚めたようになり、実は何事も起こってはいなかったことがわかるかもしれない。
批評:
こんな現実があってたまるか、と主人公が頭に描いた仮定法。新訳はわかりにくい。sort of「(動詞の前で)多少」。うとうとしていて眼が覚めることであり、比喩ではない。「そのうち眼が覚めたようになり」を「そのうち眼が覚めて」にしてはどうか。

原文:p457
She came out slowly, feeling cold and surprised, and she stood for a while blinking at the body, still holding the ridiculous piece of meat tight with both hands.
旧訳:p43 〇
やがて冷静さと驚きが胸にひろがってくる。しばらくのあいだ、両手にこのばかげた肉のかたまりをもったまま、倒れている夫をみつめながら彼女はその場に立ちつくしていた。
新訳:p48 △
ゆっくりと頭がはっきりしてきた。寒けがした。驚き、忙しく瞬きをしながら、彼女はしばらく立ったまま夫の体を見下ろした。その両手には、仔羊の腿がまだ愚かしくきつく握りしめられていた。
批評:
旧訳「このばかげた」は転移修辞が生きている。新訳「まだ愚かしく」は全文修飾だが、大げさでわざとらしい。

原文:p458
The man glanced around his shop. ‘How about a nice big slice of cheesecake? I know he likes that.’
‘Perfect,’ she said. ‘He loves it.’
旧訳:p46 〇
彼は、店のなかをぐるっと見廻した。
「厚切りのチーズケーキがあるんですが。たしかお好きだったと思いますがね」
「そうそう、大好きなのよ」
新訳:p51 ×
サムは店を見まわして言った。「特大のうまいチーズケーキはどうです?ご主人、お好きでしたよね?」
「それで完璧ね。そう、チーズケーキは大好物だったわね」
批評:
perfectは間投詞扱いの相槌。「仰る通り」「図星」「ぴったり」「バッチリ」「決まり」など。「完璧」は大げさで、ズレる。

原文:p460
They were looking for the weapon. The murderer may have taken it with him, but on the other hand he may’ve thrown it away or hidden it somewhere on the premises.
‘It’s the old story,’ he said. ‘Get the weapon, and you’ve got the man.’
旧訳:p50 △
彼らは兇器を探しまわっていた。犯人は兇器をもったまま逃げたのかもしれないが、あるいはそれを投げすてたか、この家のどこかにかくしたのかもしれなかった。
昔から定石どおりですよ。まず兇器を探せ、そうすれば犯人はつかまったも同然です」
新訳:p55 ×
そして、その兇器を探しているところだと言った。犯人はそれを持ち去っているかもしれないけれども、敷地内のどこかに捨てたか、隠したかした可能性もあるからと。
昔からの常套捜査です。凶器を見つければ、犯人はもう捕まえたも同然なんです」
批評:

the old storyは「昔からよく言われること」。警察業界での諺になっているのだ。
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