2019年2月号 柴田耕太郎

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ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。

『誕生と破局』GENESIS AND CATASTROPHE
国境の町で税関吏の子供が生まれた。それまでの3人の子はいずれも幼くして亡くなった。母親はこの子が元気に育つことをひたすら願う。ヒトラー誕生にまつわるエピソード。

短いものだが開高健訳は、誤訳が6、悪訳が7あった。田口俊樹の新訳に誤訳はないが、ちっと検討してほしい箇所もある。見てゆこう。

原文:p130
‘EVERYTHING IS NORMAL,’ the doctor was saying. ‘Just lie back and relax.’ His voice was miles away in the distance and he seemed to be shouting at her.
旧訳:p203 △ △ ×
「どこも異常ありませんよ」と医者はいっていた。「まあ、ゆっくり休むことですな」なんマイルも遠くからつたわってくる声だが、そのくせ彼は、女をどなりつけているような気がした
新訳:p256 △ △ 〇
「すべては順調です」と医者は言っていた。「ゆっくり休んでください」その声は遠く、まるで何マイルもの彼方から大声で呼びかけられているかのようだった
批評:
①「いっていた」「言っていた」ともに何となくイヤだ。継続・反復の感じがするからだ。ここの進行形は場面の強調。日本語なら「言うのだった」といったところか。
②milesは名詞だが副詞的に働き「遥かに」の意。
例:Photographs are sometimes miles apart from the actual person.
写真は時々実際の人物とあまりにかけ離れている場合がある。
③旧訳「彼は…気がした」は文がねじれている。新訳では主体が一貫していて、結構。

原文:p131
The husband was a drunkard, the innkeeper’s wife had said, an arrogant, overbearing, bullying little drunkard, but the young woman was gentle and religious. And she was very sad. She never smiled. In the few weeks that she had been here, the innkeeper’s wife had never once seen her smile.
旧訳:p205 × ×
宿屋のおかみに聞いたところだと、亭主というのは飲んだくれで、それも横柄で、弱い者いじめをする、乱暴な飲んだくれの小男なのだが、細君の若い女は気がやさしく、信心深かった。それにまた、非常に哀れでもあった。一度も笑顔を見せたことがない。この宿屋に来てここ三週間というもの、おかみは、ただの一度もその細君の笑顔を見たことがないのだった。
新訳:p258 〇 △
女将が言うには、夫のほうは呑んだくれで、横柄で支配的で、妻をいじめてばかりいる小男だが、妻は心やさしく、信心深い女なのだそうだ。ただ、いつもたいそう悲しげで、決して笑わない。宿屋に来てから数週間が経つが、彼女が笑顔を見せたことは一度もない、と女将は言った。
批評:
①sadは(1)当人が悲しい 例:I’m sad that my best friend left me. 親友が去って僕は悲しい (2)物事が悲しみを誘う 例:I like sad movies. 僕は哀しい映画が好きだ (3)表情が悲しそうな 例:There was always something a little sad about her. 彼女にはいつも少し悲しげなところがあった、のうちここは(3)。
②数行前に「二人は約三か月前(about three months ago)にこの宿にやって来た」とある。
旧訳だと「三か月前にきたが、ここに三週間は笑顔をみせていない」と読めてしまう。the few weeksはthree monthsの言い替え。新訳はこのことを理解しているのだろうが、日本語では「三か月前」=「数週間」ととれないので、訳語を変えたらどうか。例えば「随分と」「だいぶ」「けっこう」などに。

原文:p132
The woman’s face was white and bloodless, and there was a slight bluish-grey tinge around the nostrils and the mouth.
旧訳:p206 △
女の顔はまっさおで、血の気がなく、鼻と口もとがかすかに青みがかった灰色だった。
新訳:p260 △
彼女の顔は蒼白で血の気がなく、小鼻と口のまわりがかすかに青みがかった灰色に変色していた。
批評:
tingeは色合い。「青みがかった灰色」とはあまり言わない。「青灰色」では物理か化学みたいだ。ならば「青いくすみ」。青が立ちすぎると思うなら「蒼くくすんで」、さらに蒼自体に「くすんだ」が内包されるから「蒼くなって」ぐらいか。すると新訳の「彼女の顔は蒼白で」は「青白く」に直なおさなければならなくなる。直さないなら「くすみが出て」とするか。

原文:p133
‘I don’t know. I’m not sure. I think my husband said that if it was a boy we were going to call him Adolfus.’
‘That means he would be called Adolf.’
Yes. My husband likes Adolf because it has a certain similarity to Alois. My husband is called Alois.
Excellent.’
旧訳:p208 △ △
「わかりませんわ。はっきり存じません。主人の話ではもし男の子ならアドルフスにしようということだったと思いますわ」
「すると、アドルフというわけですな」
はい。主人はアドルフという名前が好きなんです、アロイスにいくらか似ているんで。主人はアロイスという名前なんです
いいお名前ですね
新訳:p263 〇 △
「さあ。わたしはまだ決めてませんけど、確か夫は言ってました。もし男の子だったら、アドルフスにしようって」
「ということは、お子さんはアドルフと呼ばれることになるわけですね」
ええ。夫がアドルフという名前を気に入っているのは、アロイスに似ているからなんです。自分の名前がアロイスなんです
すばらしい
批評:
①言っていることは同じでも、旧訳は意識の流れが読めない。Adolfは「狼」の意味で、高貴さをイメージする。Adolfusはその異名。Aloisはそれらに響きが似ている。こういった情報を本来会話に盛り込みたいが、難しい。新訳は工夫が見られる。
②excellentは強い意味でなく、会話でよくする肯定的な相槌。「成程」「そうですか」「それはそれは」といったところ。

原文:p136
‘He must live, Alois. He must, he must Oh God, be merciful unto him now …’
旧訳:p211 〇 〇
「この子だけは永生きしなければ、ねえ、アロイス、この子だけは…ああ、神さま、御恵みがこの子の上にありますように…」
新訳:p268 〇 ×
「この子は生きなくちゃいけないのよ、アロイス。何があっても生きてくれなくちゃ…ああ、神さま、どうかこの子にご慈悲を…」
批評:
①斜体のmustは強調。台詞なら強く読むところ。mustは(1)「…しなければならない」(主に動的動詞とともに) (2)「…に違いない」(主に状態動詞とともに)。だが、時として(1)(2)が合わさった意味を持つことがある。例:Human being must die. 人は死なねばならない+人は死ぬに違いない⇒人は死なずにはおかない⇒人は必ず死ぬものである。さらに通例二人称に対してだが、命令文の要素も感じられる。例:You must leave now. 今出発なさい。これを全部組み込んだ訳は不可能だろう。新・旧訳でお茶を濁すしかあるまい。

②「ご慈悲」とは言わないだろう。「お慈悲」。
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