2019年1月号 柴田耕太郎

PDFでダウンロード

ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。

『ジョージ・ポーギー』
ジョージ・ポーギーは青年副牧師。女性と付き合ったことがまだ無い。だが、劣情は人一倍強く、かつまた教区の独身女性たちの誘惑もはげしく、それらを押しとどめるのに苦慮している。そんなとき、珍しく清楚ではつらつ、インテリジェンスのある中年のローチ嬢に巡り合った。勧められるまま、アルコールらしき飲み物を一口啜る。気分が高揚した勢いでローチ嬢に迫ったのはよいのだが、そのプロセスが拙かったらしく、彼女はいたくおかんむり。ジョージは思わず彼女の口の中に飛び込み、今やその十二指腸の上に小部屋を作って、ほとぼりが醒めるまでしばらくのんびりを決め込んでいる。

開高健の旧訳は誤訳が23箇所、悪訳が13箇所。ひどいものだ。何十年も放っておいた出版元に怒りを感じる。読者にしても気づかないのか、無感動なのか?田口俊樹の新訳は読み易くて全体的にはよくできている。それでもケチをつければ、直したいところが何か所かある。

原文p110
But there was no reason on God’s earth why I, at the ripe old age of thirty-one, should continue to suffer a similar embarrassment.
旧訳p172:〇
しかしながら、私が三十一歳という壮年に達しても、いまだに同じような気まり悪さを味わうという理由はどこにもないのである。
新訳p217:△
しかし、いったいぜんたいなぜこの成熟しきった三十一歳という年齢の私が、今もって同じような辱めを受けつづけねばならないのか。まったくもって不当なことだ。
批評:
三十を超えてもなお、異性に対する過剰な意識が、青少年期特有の感情である気づまり・恥ずかしさ・バツの悪さを引き起こす、と言っている。
新訳の「辱めを受け」では「侮辱を受ける」ととられてしまう。

 

原文p111
She was a wonderful woman, my mother.
旧訳p173:〇
まったくすばらしい女だった、私の母は
新訳p219:×
思い返すだに私の母はすばらしい女性だった。
批評:
ふつう「だに」は否定的な意味合いをもった語に連なる、「思い出すだにひどい女だった」といったように。

原文p111
If you must have a religion I suppose Mohammedanism is as good as any of them.
旧訳p174:〇
「あんたが宗教を信じなきゃならなくなったら、回教にするといいわ。…」
新訳p221:△
「もしおまえが何か信仰を持つとしたら、イスラム教でもいいと思うわ。…」
批評:
「イスラム教は、どんな宗教を持ってきても、それと同程度の良さである」が直訳。例えば100ある宗教のうち一番ましなものと比べても遜色ない≒一番(いちばんが二つになるかもしれないが)。「イスラム教でも」だと、たくさんあるうちの幾つかの良いもののひとつ、と読めてしまう。

原文p112
‘Embarrassment, my pet, is the one thing that I want you never to feel. And don’t think for a moment that your father is embarrassed only because of you.
旧訳p176:△
「気まり悪がるなんて、坊や、あんたはそんな気持だけにはぜったいになっちゃいやよ。それに、パパは坊やがいるから気まり悪がっていると思ってはいけなくてよ
新訳p222:△
「おまえには絶対に恥ずかしがったりなんかしてほしくないわ。それに、おまえだけのせいでお父さんが恥ずかしがってるだなんて、一瞬たりとも思わないでね
批評:
because of ~ は原因・根拠を示す。
youが斜体なのは、話者が強く発音したしるし。
性についての話を夫の自分がいる前で、妻が息子に語るのだから、夫がembarrassedしても当然だろう。
only because of youは「ただお前のゆえに」「お前のせいだけで」だが、原文の含みをどう捉えるか。「息子に性の秘密を話すから」「息子が自分のそばにいて一緒に性の秘密の話を聞くことになるから」「まだ幼い息子に性の話をするから」といろいろ解きほぐさねば日本語らしくならない。このあとに、このようなこと(like that)に関しては妻である自分とだけ一緒にいてさえ夫はembarrassedする、とあることから、夫は性の営みや性の話が苦手なのだろう。新訳「おまえだけのせいで」が強いから、二度読まないとつかえて先に進めない。「あんただけのせいじゃないよ」とぼやかせたほうがいいだろう。

原文p113
It always ends at precisely the same place, no more and no less, and it always begins in the same peculiarly sudden way, with the screen in darkness, and my mother’s voice somewhere above me, calling my name:
旧訳p176:×
それはつねに正確におなじところで終り、多くなることも少なくなることもなく、また始まるときはいつも、闇のなかのスクリーンのように妙に唐突で、どこか私の頭上あたりから母の声が私の名前を呼んでいるのだ。
新訳p223:×
毎回まったく同じところで終り、それより長くも短くもならない。そして、いつも妙に唐突に始まる。闇の中にスクリーンが現われ、頭上のどこかから私の名を呼ぶ母の声が聞こえてくるのだ。
批評:
旧訳「正確に」ではendsに掛かってしまう。preciselyは強調的に、the same placeに掛かる。旧訳「闇のなかのスクリーン」新訳「闇の中にスクリーン」では何も見えまい。
inは状態を示す前置詞、darknessは総称用法で暗闇(であること)。「闇のなかのスクリーン」なら闇は特定化されるので、the screen in the darkness。ここのthe screen in darknessは、暗闇状態にあるスクリーン⇒「真っ暗なスクリーン」

原文p126
Had it been a red-hot iron someone was pushing into my face I wouldn’t have been nearly so petrified, I swear I wouldn’t.
旧訳p195:〇
もしそれが、私の顔に押しつけようとしている真赤な熱い鉄だったら、私だって我慢できなくなるはずである。
新訳p248:△
あれがもし真っ赤に焼けた鉄の焼印で、誰かが私の顔に押しつけようとしたのだとしても、あれほど恐怖で身がすくもこともなかっただろう。
批評:
iron(鉄)はan ironと可算名詞化され、鏝など鉄製の器具。
「焼印」には(1)熱して物に押す印鑑 (2)それを押されて残った印、の二つの意味があるが、(2)ととるのが普通。新訳「鉄の焼印」では押す道具でなく、押された跡ととられてしまいそう。

ページトップへ