2018年12月号 柴田耕太郎

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ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。

『ビクスビー夫人と大佐のコート』MRS BIXBY AND THE COLONEL’ COAT
ビクスビー夫人はニューヨーク在住の歯科医の妻。月に一度、伯母の介護という名目でボルチモアに出かけ、そこで「大佐」と呼ばれる渋い中年男と逢瀬を楽しんでいた。やがて別れがやってきたが、手切れ金代わりに高価なミンクの毛皮をもらったビクスビー夫人は、質札を拾ったことにして夫への説明を切り抜けようとする。ところが夫のほうが一枚上手だった…。

これ、下訳者が悪いのか、旧訳では少なくとも誤訳が11か所、悪訳が15か所あった。新訳ではそのほとんどが直っている。少しだけ気になった点を指摘する。

原文:p70
The wife is cunning, deceitful, and lecherous, and she is invariably up to some sort of jiggery-pokery with the dirty dog.
旧訳:p110
妻は狡猾で抜け目がなく、淫らで、いやな男とかならずよからぬことを企んでいる。
新訳:p137
夫が清く正しい生活を送る仕事熱心な男である一方、妻の方は狡猾で、嘘つきでふしだらで、馬鹿のひとつ覚えのようにダーティ・ドッグとなにやらよからぬことをやらかしている。
批評:
とやかく言うほどのことではないが、旧訳「いやな男」では誰にとってが問われてしまう。「馬鹿のひとつ覚えのように」は比喩が上手く効いていない。

原文:p72
The man had a way of making her feel that she was altogether a rather remarkable woman, a person of subtle and exotic talents, fascinating beyond measure; and what a very difficult thing that was from the dentist husband at home who never succeeded in making her feel that she was anything but a sort of eternal patient, someone who dwelt in the waiting-room, silent among the magazines, seldom if ever, nowadays to be called in to suffer the finicky precise ministrations of those clean pink hands.
旧訳:p111
その男は、彼女に、自分は人眼を惹く女で、繊細な、異国風の魅力に恵まれた、はかり知れないほど魅惑的な女性だという気持にさせてくれる。自分はいつまでたっても患者みたいなものだという気持にしかしてくれない歯科医の良人とは、なんと大きな違いだろう。ちかごろは、あの清潔な桃色の手で気むずかしい、几帳面な診察をしてもらう患者もめったに訪れず、待合室で雑誌にかこまれて押し黙っている誰かさんとは、なんと大きな相違だろう。(略)
新訳:p140
もっとも、このところは大佐といるといつもそんな気分になったが。自分がまったくもって非凡な女性に思えてくるのだ。繊細で奇抜な才能を持ち、計り知れないほど魅力的な人間に。大佐は彼女にそんなふうに思わせる術というものを心得ていた。それこそなにより家にいる歯科医の夫と異なるところだ。彼女の夫は彼女を永遠の患者みたいな気分にしか―雑誌に囲まれ、待合室に住みついてしまったような物言わぬどこかの誰かみたいな気分にしか―してくれなかった。あまつさえ、近頃はあの清潔なピンクの手が施す、正確で細心の注意を要する手当に耐え忍ぶこともめったになくなっていた。たとえそういうことがあったとして。
批評:
exoticの訳がむずかしい。「異国風の」は素人の訳だが、「奇抜な才能」はコロケーションが悪い。「特異な才能」ぐらいでどうか。
someoneはa sort of eternal patientの言い換え。「永遠の患者」つまり「who以下のような人」なのだ。「どこかの誰か」は思わせぶりすぎ。これを削って気分でなく、人物を並列させてはどうか。
「…永遠の患者―待合室に居ついて、雑誌に囲まれただじっとしている―のような気分にしかしてくれなかった。」
「たとえそういうことがあったにせよ」不要。if everを忠実に訳したのだろうが、「めったになくなっていた」で充分意は伝わる。

原文:p72
‘The Colonel asked me to give you this,’ a voice beside her said. She turned and saw Wilkins, the Colonel’s groom, a small wizened dwarf with grey skin, and he was pushing a large flattish cardboard box into her arms.
旧訳:p112
ふりかえって見ると、大佐の馬丁、ウィルキンズがいる。
新訳:p140
大佐の馬丁のウィルキンスが立っていた。
批評:
いくつかの辞書を引いたが、一様に「ウィルキンズ」と濁っていた。読み方はさまざまだが、訳す場合通例言い習わされている呼び方がよいだろう。

原文:p74
She would miss him enormously.
旧訳:p115
なし(訳抜けか)
新訳:p143
大佐のことはきっと恋しくてたまらなくなるだろう。
批評:
ここ中間話法で訳したほうが説得性が増すだろう。前の数行もそうしていることだし。
「大佐のことがきっと恋しくなるにちがいないわ」

原文:p76
‘Simply on the number.’
旧訳:p118
「番号だけのものですからね」
新訳:p148
「番号しか書かれていないんだから」
批評:
文法力と論理力が試される箇所。simplyは強調「全く以て」。onは根拠を表わす「…を頼りに」the numberは「番号札」。
(直訳)「いいですか、番号札頼みなのですよ」⇒(意訳)「失くさないでくださいよ」

原文:p79
‘There’s a lot of things you don’t know, my dear. Now you listen to me. Seeing that there’s no name and address of the owner … ’
But surely there’s something to say who it belongs to?
旧訳:p122
「きみの知らないことはいくらでもあるんだよ。いいかい。持ち主の名前と住所がないところをみると…」
でも、誰の所有かは、書いてあるんじゃないの?
新訳:p155
「世の中にはきみの知らないことがたくさんあるんだよ、ダーリン。いいかね、聞いてくれ。所有者の名前も住所も書かれてないということは…」
それでも持ち主は何かでわかるものなんじゃないの?
批評:

旧訳はあいまい。新訳は上手く訳している。
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