2018年11月号 柴田耕太郎

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ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。

『天国への登り道』THE WAY UP TO HEAVEN
 フォスター夫妻はニューヨークに住む富豪。なに不自由ない暮らしに見えるが、夫の底意地の悪さに妻は辟易している。その妻がパリにいる娘に会いに出かける当日のこと。フライトの時間に間に合わないと焦る妻は、まだぐずぐずして屋敷内にいる夫を呼びに玄関まで来た。そこで、夫が乗っているはずの奥のエレベータが中空で停まっているのに気づく。瞬時ためらったが、知らないそぶりで、そのまま夫を置き去りにして空港へと急いだ。それから3週間。妻が自邸に戻ってみると、どうやら夫は…。

原文:p37
… , but the mere thought of being late on occasions like these would throw her into such a state of nerves that she would begin to twitch.
旧訳:△
…、こういうふうな場合になると、もう遅れるなと思っただけで、けいれんを起こしてしまうぐらい、すっかり、いらいらしてしまうのだ。
新訳:△
が、時折、そういうものに遅れると考えただけで神経過敏状態に陥り、痙攣を始めるのだった。
解説:
ともに悪訳。
特に新訳だと全身痙攣と取れてしまう。
「痙攣が始まる」でどうか。

 

原文:p37
On one or two special occasions in the later years of their married life, it seemed almost as though he had wanted to miss the train simply in order to intensify the poor woman’s suffering:
旧訳:△
この長い結婚生活の間に、ほんの一度か二度この可哀相な夫人を苦しめてやりたいばっかりに、わざと汽車に乗り遅れてやろうと、彼がたくらんだこともあったようだ。
新訳:×
結婚生活というものは後年になっても一度か二度は特別な機会があるものだが、そんなときでさえ彼はまるで列車に乗り遅れたがっているかのようだった。哀れな妻の苦しみを単に深めるためだけのために。
解説:
旧訳の方が分かりやすい。
新訳では「何の特別な機会」か読んでいて疑問に思うが、出てこない。「そんなときでさえ」の比較の対象が読めない。ここ、普段は意地悪が表に出ないよう隠しているのに、それがつい油断して一、二度は悪意があからさまになってしまう、ということ。
special:いつもと違った、例外的な
later:(1)後期の (2)晩年の、のうち(1)
「結婚生活も長く続いてくるうちには、一度か二度だが、あからさまに夫がわざと列車の時間に遅れて、妻を苦しめてやろうと思える場面もあった」

原文:p41
‘Of course,’ he went on, ‘if by any chance it does go, then I agree with you―you’ll be certain to miss it now. Why don’t you resign yourself to that?’
旧訳:△
「もっとも」と彼はつづけた。「飛ぶとしたら、お前のいう通り、もう間に合わんだろうな。なぜ、お前はそうあきらめがわるいんだね?」
新訳:△
万一飛んだとしたら、その場合は私もきみの考えに賛成するよ。まちがいなく乗り遅れるだろうな。あきらめたらどうだね?」
解説:
共に「飛ぶとしても」のしたほうがよいのではないか。
この前段にある「こんな天気に飛ぶはずがない」を受けているのだから。

原文:p48
‘And what’s wrong with combs, may I ask?’ he said, furious that she should have forgotten herself for once.
旧訳:△
「櫛でわるかったな、え」一瞬、夫人がわれを忘れるほど、良人は怒った。
新訳:△
「それじゃ訊かせてもらうが、櫛のどこが悪いんだ?」と夫は珍しくわれを忘れたのにちがいない妻に激怒して言った。彼女にしてもたまにはそういうことがあって当然なのに
解説:
shouldは主文に強い感情の言葉furiousに呼応しthat節内に出たもの。that節内は  she should have forgotten herself for onceと読む。should have p.p.の仮定法過去完了ではないのに注意。
このthatは判断の根拠を示すもの「…と言う点で」。
例:I’m surprised that you should have been so foolish.(君がそんなバカだったなんて驚きだよ)
forget oneself:(1)身の程しらずのことを言う (2)放心する、前後を忘れる、のどちらだろうか。that以下は程度・結果にはとれないから(so thatでない。このsoは省略できない)、形上(2)は不可。×「この場にかぎって、彼女が放心してしまうほど(夫の言葉は怒りに満ちていた)」。×「(夫の言葉が怒りに満ちていたので)この場にかぎって、彼女は放心してしまいそうだった」。
(1)の「彼女が今度ばかりは身の程知らずのことを言ったという点で(夫は怒りの言葉を投げた)」のほうが文法上はよさそうだ。だが流れを重視して私なら(2)をとる。旧訳、新訳ともちょっとずれるが、原文に曖昧なところがあるので、これでもまあよいか。

原文:p46
She met her grandchildren, and they were even more beautiful in the flesh than in their photographs. They were like angels, she told herself, so beautiful they were.
旧訳:〇
夫人は孫たちに会うことができた。写真でみるより、実物の方がずっと可愛らしかった。ほんとに天使みたいだよ、と夫人は自分にいって聞かせた
新訳:△
初めて会った孫たちは、写真で見るよりも実物のほうがずっと可愛かった。まるで天使のよう―彼女は自分につぶやいた―なんて可愛い子たちなの。

解説:
tell oneself:心の中で、自分に言い聞かせること

「自分につぶやく」という表現はないと思うが。
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