2018年10月号 柴田耕太郎

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ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。

『女主人』THE LANDLADY
バースの町に赴任した青年ビリーは、ちょっとかわった中年婦人の家に下宿する。ほかにも二人下宿人がいるはずなのに、その気配がない。女主人との会話の中で、何年か前に失踪した学生たちとこの二人に共通項があるのに気づく。女主人を問い詰めようとすると、飲んだばかりの紅茶のせいか、意識が朦朧としてきた…。

今回分は直しが適正になされていて、新訳の意義があるように思える。旧訳で誤訳が16か所、悪訳が10か所あったものが、すっかり減っている。
さりながら、訳者には申し訳ないが、読者の勉強用に重箱の隅をつつかせてもらおう。
以下、新訳で検討したい箇所のみ取り上げる。

原文:p6
‘I’m so glad you appeared,’ she said, looking earnestly into his face(1). ‘I was beginning to get worried.’
‘That’s all right,’ Billy answered brightly. You mustn’t worry about me.’(2) He put his suitcase on the chair and started to open it.
旧訳:
「あなたが入ってくださって、うれしいわ」じいっと彼の顔をのぞきこみながら、彼女がいった。「そろそろ心配になっていた所だったんですの」
「大丈夫ですよ」ビリイはほがらかに答えた。「ぼくのことなら、心配はいりません」彼はスーツケースを椅子の上におろすと、それを開いた。
新訳:
「うちを選んでくださってほんとうに嬉しいわ」と彼女は真剣な顔でビリーの顔を見つめて言った。「実はちょっと心配してたんです」
「全然大丈夫です」とビリーは明るく答えた。「ぼくのことで心配なんかしないでください」そう言って、スーツケースを椅子に置くと荷解きを始めた。
解説:
(1)新訳は「顔」「顔」と続いてうるさい。旧訳のままがよいかな。
(2)前のworriedは、形容詞「心配な」。後のworry aboutは、自動詞+前置詞「…を気にする」。ここ、おかみが「自分の家にふさわしい人がやってこないのではと、不安になりだしていたところへ、この家にぴったりのあなたが来た」と巡り会わせを喜んだのに対し、ビリーが謙遜し、「そんなことないですよ」(That’s all right.は、感謝・謝罪に答えていう言葉:どういたしまして、気にしないで、といったニュアンス)、さらに「あなたは僕のことを気にしてはいけない」→「僕は(来てくれるものかどうか)あなたが気をもむに値するほどの人間ではない」と答えたところ。この論理が通るように訳さねばならない。
意訳:「そんな」ビリーは明るく答えた。「僕でよかったんでしょうか」

原文:p6
‘Very well, then. I’ll leave you now so that you can unpack. But before you go to bed, would you be kind enough to pop into the sitting-room on the ground floor and sign the book? Everyone has to do that because it’s the law of the land, and we don’t want to go breaking any laws at this stage in the proceedings, do we?’
旧訳:
「そう、結構ですよ。じゃ、わたしは失礼しますから、鞄の整理をなさいね。ただ、おやすみになる前に、階下の居間までいらして、宿泊簿に書きこんでいただけませんかしら?こちらでは、それがきまりになってますので、誰でもそう願っていますのよ。わたしたち、たとえこんな形式みたいな法律でも、破りたくありませんもの、そうでしょ?」彼女は彼に向って、かすかに手をふると、すばやく外に出て、扉をしめた。
新訳:
「そういうことでしたら、わたしはこれで失礼しますね。荷解きの邪魔にならないように。でも、ベッドにはいるまえに一階の居間に降りてらして、宿帳に記入してくださいます?誰でもそうしなくちゃならないのがこの国の法律ですから。どんな法律も破りたくなんかありませんでしょう、この段階では。手続きはまだあるんですから。でしょう?」そう言って彼女は小さく手を振ると、そそくさと部屋を出てドアを閉めた。
解説:
旧訳は「訴訟手続きにおけるこの段階」と読んで、「こんな形式みたいな法律」の訳が出来たのだろうか?ちょっとずれる。
at this stageは、「現段階では」。斜体が掛かって強調になっている。
proceedingsは、(1)「出来事」→「進め方」「方法」「手順」 (2)「訴訟手続き」。前後の流れから、ここは(1)で、theと限定される内容は、素人下宿関係のことと思われる。
新訳は「手続き」が立ちすぎの気がする。ぼやかせた方がよいのではないか。
参考訳:今こうした(仕事の)ことで法律を破りたくありませんでしょ。

原文:p9
‘Seventeen!’ she cried. ‘Oh, it’s the perfect age! Mr Mulholland was also seventeen. But I think he was a trifle shorter than you are, in fact I’m sure he was, and his teeth weren’t quite so white. You have the most beautiful teeth, Mr Weaver, did you know that?’
旧訳:
「十七ねえ!」と彼女は声をあげた。「まあ、すばらしい年頃だわ!マルホランドさんも十七でした。でもあの方、あなたよりちょっと年上のようにみえましたわ。そう確かにそう見えた。それに、あの方の歯は真白というわけじゃなくてね。あなたの歯は、とてもきれいだわ、ウィヴァーさん、自分でも気がついてらして?」
新訳:
「十七!」と女主人は大きな声をあげた。「まあ、完璧なお歳ね!ミスター・マルホランドも十七でした。でも、彼のほうがちょっと背が低いかしら。ええ、そうね、低いわね、それに歯もそんなに白くなかったわ。ミスター・ウィーヴァー、あなたの歯ってほんとうにおきれいね。ご存知でした、そのこと?」
解説:
perfectをどうとるか。旧訳は「桎梏・欠点がない」、新訳は「(自分の都合に)ピッタリの」ととっている。英語は両方の要素が入っているのだろう。日本語では、どちらかを選ばねばならない、という一例。どちらも悪くない。読者にとってどちらが親切かで、考える。
旧訳の意味でとるなら「理想的な」。新訳の意味にしたいなら「お誂え向きの」。両方の意味を出したければ「申し分ない」、硬く訳すなら「恰好の」。どれも一長一短か。

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