2018年6月号 柴田耕太郎

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ロアルド・ダール作品集の悪訳には翻訳業界人として心を痛めてきたが、ようやく田口俊樹の新訳が出始めた。新旧訳を比べることで、翻訳の楽しさ・難しさ・奥深さを味わっていただこう。何より読者がたにとって、英文読解のよい教材となるものと思う。

William and Mary
(ストーリー)
ウィリアムはオックスフォードの哲学教授。癌に侵され、余命いくばくとなったとき、医師のランディに、脳だけを生かす実験に協力するよう頼まれる。これを受け入れる苦衷の決断をして死んでいったウィリアム。遺書で事の次第を読んだ妻のメアリーは、ランディ医師の病院に赴く。そこで彼女が見たものは…

開高健の旧訳は細かく見ると、誤訳が18、悪訳が13。
ほとんどは田口俊樹の新訳で直っているが、いくらか検討すべき個所がある。

①p13
If this is about what I am beginning to suspect it is about, she told herself, then I don’t want to read it.
旧訳:
これが、どんなことを書いているのかしらとわたしが疑うようなものなら、と彼女はひとりごちた。わたしは読みたくない。×
新訳:
ひょっとして、あのことについてだとしたら―ミセス・パールは自分に言い聞かせた―もしそうなら読みたくない。△
批評:
thisは、亡くなった夫の遺書。
suspectは、(悪いことに関し)そうだと思う。
itは、文中において問題になっている事柄。ここでは遺書の内容。
what=the thing which。
前後を二文に分解してみる。
This is about the thing. I am beginning to suspect it is about the thing.
全体の直訳「この遺書が、私がその内容はそのことについてではないかと懸念しているまさにそのことについて書かれているのだとしたらと、彼女は心の中で自分に言い聞かせた、私はこの手紙の中味を読みたくない」
旧訳は誤り。新訳は間違ってはいないが、「あのこと」というほど具体的なことを指しているわけではない。くどくど・ねちねち・がみがみ、そうした自分が今更聞きたくないことが書かれているのを恐れるのである。折角の新訳だ、ニュアンスを生かしてほしい。例えば「いまさら聞きたくないことが書かれているのだったら…」。

②p20
Then, working quickly, I would dissect out both the left and right jugular veins and hitch these also to the heart machine to complete the circuit.
旧訳:
それから、すばやく左右の内頸動脈を切開し、こいつをまた人工心臓につないで、血管の循環を完全にする。〇
新訳:
それから手早く左右の頸動脈を切断し、こちらもやはり機械の心臓につなげて回路を完成させる。△
批評:
新訳「切断し」だとスパッと切ってしまうかのようだ。dissectは「切り口を入れる」こと。旧訳の方がよい。

③p22
The next step is the really tricky one: to release the whole package so that it can be lifted cleanly away, leaving the stubs of the four supply arteries and the two veins hanging underneath ready to be re-connected to the machine.
旧訳:
その次は、じつに微妙きわまる段階だ。おおいをぜんぶとってしまうことでね。そうすれば、きれいなまま持ちあげることができる。ただ下の四本の動脈と二本の静脈は、いつでも人工心臓に連結できるようにそのままにしておく。△
新訳:
ただ、次の手順がなかなか厄介でね。脳をまるごと、被膜ごと解放してやらなきゃならない。脳をきれいに持ち上げて体から切り離せるように。そのときには四本の動脈と二本の静脈を切断することになるが人工心肺にすぐにつなげられるようにその切断された部分は脳からぶら下がった状態にしておく。△ × △ ×
批評:
このcleanlyは「面倒なく、雑作なく」の意。両訳とも「きちんと」「はっきりと」「確かに」などとするのがよいだろう。
新訳「その切断された部分は」を削除する。まだ切断されずに管を差し込んだ状況のはずだ。
新訳「切断する」はleaveの誤読。ここS V O Cの形で「the stubとthe two veinsをhangingの状態にしておく」の意。「をそのまま」「残して」
それとthe machineは、前に出てくるartificial heartのことだが「人工心臓」でよいのではないか。人工心肺ならa heart-lung machineになろう。

④p23
I would now cut the brain completely loose by severing the supply arteries and the veins.
旧訳:
さて、わしは、動脈と静脈を切断して、脳髄を完全に分離する。
新訳:
ここで、もう一度動脈と静脈を切断し、脳を体から完全に切り離す。×
批評:
新訳だと以前に動脈と静脈が切断されていることになる(dissect、leaveの誤読)。p20では、四本の動脈に管を入れ還流させ、二本の頚静脈を割き(dissect out)人工心臓に繋げる、とあった。
この時点ではじめて動脈、静脈を切断して、脳を自由に動かせるようにしたのだ。新訳の「もう一度」は消すか「(ここで)はじめて」とするべきだろう。

⑤p26
I’d just have to grin and bear it for the next two centuries.
No mouth to grin with either.
旧訳:
私はただにたにたして、これからの二世紀のあいだ、じっと耐えなければならない。
だが、にたにたするにも口がない。×
新訳:
このさき二百年ずっとただにたっと笑って、耐えなければならなのだ。
にたっと笑おうにも口がないわけだが。×
批評:
grinに注意。翻訳に、三省堂の小型辞典コンサイスで済ませていた時代が昔はあった。そこではgrinの語義が「歯をむき出しにニタニタ笑う」だけになっており、諸家は皆この訳語を充てた。別の語義、「白い歯を見せてにっこりほほ笑む」イメージがこの訳語から想像できるだろうか。
さらにここのように「歯を食いしばり苦しみを我慢する」意味もある。辞書をひくのを厭ってならない。「歯をくいしばり」に直す。

⑥p27
One moment I might be imagining that I had the most excruciating cramp in my leg, or a violent indigestion, and a few minutes later, I might easily get the feeling that my poor bladder―you know me―was so full that if I didn’t get to emptying it soon it would burst.
旧訳:
脚がこの上なくはげしい痙攣を起こしたり、あるいは、ひどい消化不良を起こしたかと思うと、それから二、三分たって、私の膀胱―お前は知っているだろうが―いっぱいになりすぎて、もし膀胱をからっぽにしなければ、爆発してしまいそうだといった感じをかんたんに持つかもしれない。△
新訳:
脚がこの上なくひどいこむら返りを起こしていると感じても、あるいは、胃がひどい消化不良を起こして、その数分後にはいともたやすく私の哀れな膀胱が―これはおまえもよく知っていることだが―いっぱいになり、すぐに出さなければ破裂してしまうという感覚に襲われても、為す術がないのだ。△
批評:

前立腺肥大の亭主が尿閉状態になるのを妻が心得ている、ととれないこともないが、ここはそんな悠長に持病を述べている場面ではない。挿入でもあるし、言いにくいことをあえていう(何しろ語り手はオックスフォードの哲学教授なのだ)遠慮の表現(間投詞扱い)と取るのがよいだろう。「私の言わんとすることを君は認識しているはずだが」→「こういっては何だが」。
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