[アイディ英文教室連載コラム] 『どこが違っているのかな?!』 第35回『キス・キス』(開高健訳)  表現そのⅦ

2018年2月号

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 10年かけてロアルド・ダールの短編集(The Collected Short Stories)を点検し終わった。一字一句精読し、市販訳(早川書房)と比べてゆくのである。
 このシリーズは開高健、田村隆一などの名手が翻訳しているのだが、若い頃読んでいて読みづらいと思った。やはり誤訳・悪訳がボロボロ。
 でも興味を覚えた。一応の英語使いが間違える箇所なら、一般の英語学習者にとっても苦手な箇所のはずだ。ならばそれを列挙し説明をつけて学習者に裨益しようと、当欄の姉妹コラム「誤訳に学ぶ英文法」(アイディのホームページにあり)で連載してきた。
 このコラムでは、それを作品集別、品詞別に分類し、誰もがつまづきそうな箇所でそう複雑でないものを選んで解説してゆく。辛抱強く読んでゆけば、実力向上疑いなし。パズルを解くように楽しんでいただければ幸いです。

今回も日本語表現がおかしい部分を取り上げます。

『ビクスビー夫人と大佐のコート』Mrs Bixby and the Colonel’s Coatの気になる表現

ビクスビー夫人はニューヨーク在住の歯科医の妻。月に一度、伯母の介護という名目でボルチモアに出かけ、そこで「大佐」と呼ばれる渋い中年男と逢瀬を楽しんでいた。やがて別れがやってきたが、手切れ金代わりに高価なミンクの毛皮をもらったビクスビー夫人は、質札を拾ったことにして夫への説明を切り抜けようとする。ところが、夫のほうが一枚上手だった…。

①ことばの幅

原文と市販訳:

There is one, however, that seems to be superior to the rest, particularly as it has the merit of being true.
けれどもひとつだけ、とくに真実という長所があるので、ほかの物語よりもすぐれているように思われる話がある。

解説:

パブロフの犬みたいにtrueとくると「真実」と訳すのが、プロ・アマを問わずよく見られる。
だがtrueの幅は広い。「ありのまま」「…そのまま」とするとピタッとくることが結構ある(true to life ありのままの人生、人生そのまま)。
ここは「真実」とすると、あいまい、あるいは大げさに響くところ。「事実」「本当」の語を当てるとよさそう。

修正訳:「事実であるという長所」「実話だという取り柄」

②難字

原文と市販訳:

―that there was little or no chance of their growing bored with one another. On the contrary, the long wait between meetings only made the heart grow fonder, and each separate occasion became an exciting reunion.
それどころか、尾生の辛さがひたすら恋しい気持ちをつのらせ、おたがい、はなれて暮らしていることが、心ときめく再会とはなった。

解説:

「尾生」を「びせい」と読める人がどれくらいいるだろうか。まして、言葉の意味を知っている人は。とくにこれはエンタテイメントなのだ、一般人の教養の程度に訳文もあわせねばならない。

修正訳:「会う約束」それでは情緒がないというなら「またの逢瀬」

*参考:尾生の信(広辞苑より)
壮子 (尾生が女と橋の下で会う約束をしたが女は来ず、大雨で増水してきたのに待ち続け、ついに溺死したという故事に基づく)固く約束を守ること。愚直なこと。

③他動詞

原文と市販訳:

I’d almost forgotten how ravishing you looked. Let’s go on earth.
「わたしはきみのうっとりするような姿を忘れかけていた。さあ、夢からさめよう」

解説:

このままだと、「君自身がうっとりする」ようにとられかねない。他動詞の現在分詞形の形容詞は「ひとを…させる」の意味だから、「ひとをうっとりさせる」

修正訳:「魅力あふれる姿」

④語義と掛かり方:

原文と市販訳:

… ; and even a man like Cyril, dwelling as he did in a dark phlegmy world of root canals, bicuspids, and caries, would start asking a few questions if his wife suddenly waltzed in from a week-end wearing a six-thousand-dollar mink coat.
根管、二頭歯、虫歯といった暗い、無気力な世界住んでいるとはいっても、たとえシリルのような男でも、自分の妻が六千ドルもするミンクのコートを着て週末の旅行から踊るような足どりで帰宅したとすれば、あれこれと質問してくるだろう。

解説:

phlegmyは、本来慌てるようなときでも変わらずにいること、だから「無気力」ではまずい。人間なら「冷静な」だが、ここは世界をいっているので訳語を工夫する。

修正訳:「無感動な世界」

つづく箇所、日本語の掛かり方がわかりにくい。「…ても」「…でも」のように両方が強調される場合は、並列が自然に読めるものでなくてはならない。例:雨が降っても、休みの日でも、彼は会社に出かける。 ここがおかしいのは、「…ても」の部分はシリルの状況、「…でも」の部分はシリル自身をあげており、並列されるべきものが適当でないことから起こっている。

修正訳:「(無感動の世界)に住んでいるシリルのような男でも」。

⑤ことばのつづき具合

原文と市販訳:

But the thought of parting with it now was more than Mrs Bixby could bear.
しかし、これを手離すかと思うと、ビクスビイ夫人には到底耐えられなかった。

解説:

「には」を生かすなら、「ビクスビー夫人には苦痛しか浮かばなかった」のようにする。直訳は「だが、それを手離すという考えは、ビクスビー夫人が耐えることのできる以上のものだった」。

修正訳:「だがこれを手離すのかと思うと、ビクスビー夫人は耐えがたかった」

⑥イディオム:

原文と市販訳:

‘I’ve got to have this coat!’ she said aloud.
「ぜがひでもこのコートをもっていなければ!」と彼女は思わず大声が出た

解説:

これは誤訳に分類した方がよいかもしれない。say aloudは「声に出して言う」。say loudが「大声でいう」。

修正訳:「思わず声が出た」または「夫人は思わず口にした」
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