[アイディ英文教室連載コラム] 『どこが違っているのかな?!』 第18回『キス・キス』(開高健訳) 代名詞 そのⅠ

2016年8月号

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 10年かけてロアルド・ダールの短編集(The Collected Short Stories)を点検し終わった。一字一句精読し、市販訳(早川書房)と比べてゆくのである。
 このシリーズは開高健、田村隆一などの名手が翻訳しているのだが、若い頃読んでいて読みづらいと思った。やはり誤訳・悪訳がボロボロ。
 でも興味を覚えた。一応の英語使いが間違える箇所なら、一般の英語学習者にとっても苦手な箇所のはずだ。ならばそれを列挙し説明をつけて学習者に裨益しようと、当欄の姉妹コラム「誤訳に学ぶ英文法」(アイディのホームページにあり)で連載してきた。
 このコラムでは、それを作品集別、品詞別に分類し、誰もがつまづきそうな箇所でそう複雑でないものを選んで解説してゆく。辛抱強く読んでゆけば、実力向上疑いなし。パズルを解くように楽しんでいただければ幸いです。

①『女主人』 The Land Lady

原文と市販訳:

And it is such a pleasure, my dear, such a very great pleasure when now and again I open the door and I see someone standing there who is just exactly right.
ときどき、扉をあけてみると、誰かがちゃあーんとそこに立っているのを目にした時は、そりゃあ、とてもうれしいの。

背景:

下宿屋の女主人が、宿を求めにきた若者に語りかける。なかなか自分が気に入るような宿泊客は来るものでない、と。

ヒント:

someoneは、who以下で限定される要素を持つ「誰か」のことで、誰でもいいわけではない。

解説:

justもexactlyも強調。exactlyが斜体なのは、強く発声しているしるし。rightは「ふさわしい」「適切な」の意味。

修正訳:

直訳「(この家に)ぴったりふさわしい誰かが立っている」
意訳「思った通りの人がい(てくれ)る」

②『女主人』The Land Lady

原文と市販訳:

‘I’m almost positive I’ve heard those names before somewhere. Isn’t that queer? … ’
「どこかでこの名前を耳にしたことは、確かなんですが。変ですか?…」

背景:

宿泊客の青年が、宿帳に記された名前に憶えがあるのだが、と女主人に問いかける。

ヒント:

「変ですか」では、何が変なのか分からない。

解説:

thatは、前の文全体を指す。これは相手に掛けているセリフで、反語になっている(変ではないですか、いや変です)。

修正訳:

「それっておかしくありませんか」

③『ウィリアムとメアリイ』 William and Mary

原文と市販訳:

If this is about what I am beginning to suspect it is about, she told herself, then I don’t want to read it.
これが、どんなことを書いてあるのかしらとわたしが疑うようなものなら、と彼女はひとりごちた。わたしは読みたくない。

背景:

峻厳であったオックスフォード大学の哲学教授である夫。その夫が遺書を残して死んだ。さてそれを読んだものかどうかと、迷う妻。

ヒント:

下線部の意味が不明。原文を正確に読み取れないので、誤魔化したと思える訳文だ。whatをthe thing whichに置き換えた上で、二文に分解するとよく分かる。

解説:

This is about the thing. I am beginning to suspect that it is about the thing.となる。itは抽象性が高く、代名詞thisを受けるいわば代・代名詞(これはその事柄に関してのものだ。私はこれがその事柄に関してのものだとうすうす感じ始めている《ひょっとしたらそうかなと思っているまさにそのこと》)。suspectは「(よくないことについて)…だと思う」。ついでに、tell oneselfは「自分に言い聞かせる」。

修正訳:

あのことだったらイヤだなと私が思っていることが書かれてあるのだったら

④『ビクスビー夫人と大佐のコート』 Mrs Bixby and the Colonel’s Coat

原文と市販訳:

; and what a very different thing that was from the dentist husband at home who never succeeded in making her feel that she was anything but a sort of eternal patient, someone who dwelt in the waiting-room, silent among the magazines, seldom if ever nowadays to be called in to suffer the finicky precise ministrations of those clean pink hands.
自分はいつまでたっても患者みたいなものだという気持ちにしかしてくれない歯科医の良人とは、なんと大きな違いだろう。ちかごろは、あの清潔な桃色の手で気むずかしい、几帳面な診察をしてもらう患者もめったに訪れず、待合室で雑誌にかこまれて押し黙っている誰かさんとは、なんと大きな相違だろう。

背景:

歯科医の良人と、愛人である苦み走った紳士を、頭のなかで比較する妻。

ヒント:

someoneは何の言換えか?

解説:

someoneがa sort of eternal patientの言い換えなのが分かっていないので、訳がおかしくなっている。元訳では、「歯科医の良人」=「誰かさん」と読めてしまう。the finicky precise ministrationsは「夜の生活」を意味するようにも読める。

修正訳:

全体の直訳「自分はある種の永遠の患者、つまり、雑誌に埋もれ静かに待合室に居住し、あの夫の清潔なピンクの手の難しい繊細な施術を受けるために中に呼ばれることが、最近ではあったにせよめったにない人間でしかない、と彼女に感じさせてしまう、家にいる歯科医の夫とはそれはなんと大きく違ったことであることか」
全体の意訳「家にいる歯科医の夫とはなんと大きな違いだろう。夫といると、自分は待合室で雑誌に埋もれ永遠に順番を待つ患者ではないかと思ってしまう。内に呼ばれあの清潔なピンクの手で施される繊細なご奉仕を受けることも、そういえばこのところとんと無いのだ。

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