2010年5月号(第10回))

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2010年5月号(第10回)
 毎日新聞2010/04/15朝刊社説「外国人看護師」の見出し「締め出し試験の愚かさ」が気になって、読んでみた。


(本文)
 経済連携協定(EPA)に基づきインドネシアとフィリピンから来日している受験生が初めて看護師国家試験に合格した。ただし、わずか3人。両国の受験者は254人で、合格率は1.2%だ。一方、日本人の合格者は約9割に上る。① 外国人受験生にとっての壁は、難解な漢字や専門用語だ。本当に看護師の仕事に必要なのか。わざと締め出そうとしているようにしか思えない。(番号、下線部は筆者)
(中略)
  試験問題の文中には「誤嚥」(ごえん)「臍動脈」(さいどうみゃく)「塞栓」(そくせん)「喉頭蓋」(こうとうがい)「喘鳴」(ぜんめい)「落屑」(らくせつ)などの難しい漢字がたくさん登場する。② どうしても必要ならば仕方がないが、たとえば「眼瞼」(がんけん)は「まぶた」、「褥瘡」は「床ずれ」に言い換えた方が患者もわかるし医療現場でも便利ではないだろうか。
(中略)
 形式的な公平だけでなく、実質的な公平を実現しなければならないことを「合理的配慮義務」という。国連障害者権利条約などにある概念で、障害や宗教、人種などによる目に見えない障害を取り除くために用いられる。看護師を目指す外国人に対する日本の国家試験はまったく合理的配慮に欠けている。高齢化が急速に進んでいく一方で、就労人口は減っていく。④ 外国人看護師にたくさん来てもらわなければ困るのに、いったい何を考えているのか。



 専門用語の難解さには、私のような翻訳を仕事にしている者は、いつも腹を立てている。 自分でも、次のように書いたこともある。

(拙著「英文翻訳テクニック」筑摩書房)
 やればできるじゃないか、と思った。95年に施行された改正刑法(「平易化刑法」)の話。とにかく、それまでの刑法条文は素人にはほとんど理解できない代物だった。
 例えば、内乱罪を規定した第七七条。「政府ヲ顛覆シ又ハ邦土ヲ潜窃シ其他朝憲ヲ紊乱スルコトヲ目的トシテ暴動ヲ為シタル者ハ…」。あるいは賭博罪を規定した第一八五条。「偶然ノ輸えい(註:「えい」の漢字がパソコンではでてこない)ニ関シ財物ヲ以テ博戯又ハ賭事ヲ為シタル者は…」。刑法以外ではお目にかからない言葉が並ぶ。
 これが、平易化刑法では次のように“翻訳”されている。第七七条。「国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者は…」。第一八五条。「賭博をした者は…」。これならわかる。
 刑法が制定されたのが明治40年(1907年)だから、約90年ぶりに法律が日常に歩み寄ったわけだ。それでも、概念の解釈が問題になるといまでも原典(モデルとなった西洋の法律)に当たるのだそうな。つくづく明治訳語は罪深い。


 このように、努力して改訂できるものは、当然したほうがよい。だが易しく言い換えることは、意味を曖昧にし、その分野のプロ同士の理解の円滑化を妨げることもある。
 例えば
an interesting personinteresting は「他動詞の現在分詞形の形容詞」といえばよいものを、「目的語をとる動詞に〜ing がついて形容詞として使われているもの」とすれば、英語の初心者には親切かも知れないが、上級者にはわずらわしいばかりだろう。
 一般に専門語は上位言語で作られるので、英語ではギリシア、ラテン語由来になり、日本語では漢語由来になる。社説がいうように、外国人受験者を落とそうとしているわけではあるまい。専門語はやっかいなものだが、それを習得しなければ仕事にならないのだ。ちなみに英語の医学用語でそれをいくつか例証してみる。

physicianギリシア語  physike= science of natureより

-algia 「…痛」 cardialgia(胃痛、胸やけ) [cardi心臓]
neuralgia(神経痛)

gastr(o)- 「胃」 gastritis(胃炎) [-itis …炎] gastralgia(胃痛)

gastrology (胃学) [-logy …学]

-itis 「…炎」 bronchitis(気管支炎) osteitis(骨髄炎) [oste- 骨]

neuro- 「神経の」 neuropathy(神経病質) [pathy 病気] neurosis(神経症)

psych(o)- 「精神」 psychoanalysis (精神分析) psychology(心理学)

-osis 「…病症」 psychosis (精神病) psychoneurosis(精神神経症)

-tomy 「切開」「外科手術」 bronchotomy(気管切開) cardiotomy(心臓切開)

「合理的配慮義務」自体も専門語で、一般の人には説明しなければ分からない。だが、専門家たるマスコミ業界人同士なら、そのままですぐ理解でき、話もスムーズに進むはずだ。
看護師は医療のプロなのである。補助看護師扱いするなら資格試験の漢字に配慮するのもよいだろうが、それではプロの外国人看護師に対し失礼だろう。医療の現場では、正確を期すため、スタッフ同士でやる仕事をスムーズに進めるため、専門語はやはり覚えてもらわねばならない。もちろん、先に言ったように、改訂できる用語は改訂しての上でのこと、ではあるが。

 

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