英文翻訳テクニック

書籍『英文翻訳テクニック』の内容を一部ご紹介いたします。


翻訳家の種明かし

【訳書を出したい】

俺だって、あと半年もすれば、地方の大学の語学教師になり、やがて一冊くらい訳書も出すだろう。そしてその時は、俺だってやはりちょっと興奮し、熱っぽい後書きを書き、そして、少しの間、幸福になるだろう。

(柴田翔『されどわれらが日々』)

ちょっとシニカルなこの文章は1963年に書かれた。

闘争に疲れた後の気の遠くなるほどの時間。学界で名をあげる功名心は既に失せている。それでも「各種の時間潰しの堆積にすぎない」人生の合間に「ちょっと夢中になれる」ささやかな自己満足は得たい。

主人公が翻訳に目をつけたのは故ないことではなかった。翻訳需要が限られていた当時、訳書を出すことは、専門家とみなされていた大学教員にとっても「重大」で「興奮」に値する行為だったのである。

翻って現在、一年間に出版される翻訳書の数は4000冊を超えるに至った。科学や文学といった大学教員お得意の分野ばかりが翻訳されるわけでもない。出版翻訳需要は、量、分野ともに大学教員の“余技”でまかなえるレベルをはるかに超えてしまった。


そもそも、昔から、名のある大学教授の訳したものが必ずしも名訳だったわけではない。とんでもない“迷訳”も少なからず流通していた。悪いものは時の流れのなかに消えていってしまっただけの話である。例えば、旧制高等学校の英文学教授某氏は、文学の潮流に少なからず影響を与えた『表象派の文学運動』(アーサー・シモンズ)をいち早く訳す栄誉を担ったが、その冒頭で、「彼の最近の作品」と訳すべきところを「彼の最後の作品」と訳してしまっている。お察しの通り、lastといえば最後、と思い込んでいたようだ。こんな訳文を押しつけられては被害甚大だ。

そこまでの誤訳でなくとも、あまりに“難解な”訳文を前に「俺は頭が悪いのか」と勉学の志を中途で投げ出した人もいるのではないだろうか。自分が理解することと、それを他人にもわかるよう表現することが別物だということをご存じない「先生」が昔はけっこういらしたのである。


時代は変わった。

知識人という言葉がほとんど死語になりつつあるように、いまや国民の知的レベルは相当高くなった。たいていの知的作業なら誰でもこなせる時代になったのである。いや、マスコミに登場する生半可な知識人よりはよほど一般人の方が知性と教養に長けているとさえいえるだろう。そして、語学力では若い世代に軍配が上がる。新しい情報を取り入れる手段も電子メディアやネットワークの発達により業界のワクにとらわれず国民の手に広く開放された。出版翻訳が大学教員の“専売特許”たる理由は、もはや消失したのである。自分の持てる能力を発揮して訳書を出してみたい、と考える人が今日数多くなっているのは、いわば時代の必然だ。


翻訳マーケットの事情も追い風になっている。国境を越えたコンピュータ・ネットワークの時代にあって、電子テキストも含めた広い意味での翻訳需要は増大する一方。様々な文化、様々な人間の営みを理解し伝えるために、広範な領域をカバーするもっと多くの翻訳家が必要となってきている。ぜひ、あなたにも仲間に加わっていただきたい。翻訳は、いまでも「重大」で「興奮」に値する営みだ。 ただし、翻訳家として生きていきということは、一生に一冊訳書を出して「幸福」な気分に浸ることとは違う。大学教員や給与所得者と違って、一度「なった」からといって地位や収入が保証されるわけではない。町工場の経営者といっしょで、常に良質の商品を供給し続けてはじめて生き残ることができる。それまで自分が苦手としていた分野でも、無関心であった事柄でも、くらいついていく執念が必要だ。自分なりの翻訳スタイルを少しずつ作り上げながら。


【翻訳はビジネスである】

語学ができれば翻訳家になれるわけではない。日本語ができても俳優になれるとは限らず、歌が歌えても歌手になれるとは限らないのと同じである。

原著者が味わった生みの苦しみと書く喜びを追体験し日本語で示す表現者が翻訳家だ。昔物語に聞く「生活費を稼ぐため」「渡航費を捻出するため」片手間でできるというイメージは捨ててほしい。

恐れもせず侮りもせず、翻訳家という仕事がどんなものか、まずは、しっかり見定めていただきたい。


〔翻訳も商品である〕

翻訳業という仕事があることは誰でも知っている。けれど、翻訳もまた商品であることは意外に知られていない。

大学教授をはじめ本業を別に持つ人の翻訳がえてして迷訳・珍訳になりがちなのも、そのためだ。彼らにとって翻訳とは、あくまでサイド・ビジネスに過ぎない。少々出来が悪くても締切に遅れても本業の評価が下がるわけではない。自然、専門外のことや難解な言い回しに遭遇すると「エイヤッ!」となるし、読者に読みやすい訳文を提供しようというところまで気がまわらない。これは大変困ったことなのである。いかにサイド・ビジネスといえども、出版され店頭に並ぶからには商品にほかならない。売れる売れないは別にして、消費者に多大な迷惑をかけるようでは商品失格。出版物の場合、誤りが書かれていたり、論理が矛盾していたり、日本語として理解しづらいものは欠陥商品といっていいだろう。

長い間、そういった「半製品」「試作品」程度の翻訳に慣らされてきたせいもあるのだろう。翻訳家を志望する人たちの間にも、翻訳が商品であることを理解していない人が大勢見受けられる。新人登用のオーディションをしていて、「別に英文読解のテストをしているわけしゃないのに」と呆れてしまうことが少なくない。翻訳業界においてもオーディションの本質は変わらない。どの製品(翻訳)が最もクライアント(発注者)のニーズに合っているかを秤にかけるため行っている。演劇でいえば主演俳優を決めるようなもの。自治体が大型コンピュータ導入をめぐって業者にプレゼンテーションさせるのと何も変わらない。その場に、こちらが相当手を加えない限り使い物にならないような「半製品」を出されては、言葉も出なくなるというものだ。

それでも出版社なら編集段階で手を加えてくれるのではないか、と思っている方もいるだろう。残念ながら、出版物の回転が異常に早い今、そんな余裕のある出版社は皆無に等しい。編集者一人で月に何冊も担当しているのだから無理もない。訳者があとがきで「翻訳が編集者と訳者の共同作業であるのを知った」などと悠長なことを言っていられたのは、もはや一昔も前のことなのである。少なくとも新人翻訳家に関する限り、用字用語など表記上の問題を除いて「ほぼ完成品」といえる翻訳を出さなければ到底使ってもらえない。手直しに時間がかかるようでは全体の生産効率が下がるからだ。

翻訳家を志望する人には、翻訳も、工業製品と変わらぬ「商品である」ことを、まず頭にたたき込んでもらいたい。


〔商品未満の訳文〕

それでは、どんな翻訳が商品として価値が高いのか。生産者サイドに立っていうなら、そのまま印刷できる状態になったものがいい翻訳だ。つまり、編集者や校正者、あるいは監修者の手を煩わせずにすむもの。また消費者サイドに立つならば、一読してすっとわかる文章がいい翻訳ということになる。

こう書くと、「誤訳はともかく文章に客観的な基準があるのか」「所詮、好みの問題ではないか」といった反論が聞こえてきそうだ。もとより文章の善し悪しを判断する絶対的な基準はない。けれど、出版してもおかしくない水準というのはある。ちょうど工業製品が一定の水準を満たしてはじめて市場に出回るのと同じことだ。とりわけ訳書の場合、原文を過不足なく伝えることが求められる。原著作物の理解を妨げたり、読む気をなくさせるような表現は慎まなくてはならない。

例えば、以下に挙げる訳例などは「商品未満の訳文」の典型だ。校正前のものだが、極めて雑な上がりである。


これは16世紀に織られ、現在はフランスのパリのクラニー博物館??に所蔵されている『ユニコーンを連れた貴婦人??』連作のうちの1枚です。連作全体を通じてライオンとユニコーンが、おそらくこのタペストリーを発注したルーヴィスト??家の紋章入り旗や盾形紋をサポートしています。5点のタペストリーは様々なシーンを表していると考えられています。この作品は「傾聴??」と題され、盛装の貴婦人が手風琴を演奏しており、上方に金色のライオンとユニコーンが見えます。


●不明な点を調べるのも翻訳者の仕事

まず気になるのが??マーク。「確かなことはわからないので、後はそちらで調べて下さい」というつもりなのだろう。しかし、重要な固有名詞この調子で訳し飛ばされてはかなわない。専門事典や類書にあたって、きちんと定着した訳語を選ぶべきである。そうすれば、この作品が連作『貴婦人と一角獣』のひとつ「聴覚」だということがすぐわかる。


●固有名詞は常に原語読み、もしくは通常言い習わされている訳語を用いる

“クラニー博物館”は“クリュニー美術館”。これは基本的に調べたか否かの問題だが、原文がCluny Museumなので、手拍子で“クラニー”と訳したようだ。フランスの美術館なのだから、そうは読まない。


●辞書は各国語そろえておくべし

“ルーヴィスト”はLe Visteなのだから“ル・ヴィスト”。英語専門の翻訳家でも、この程度の初歩的な原語読みはできなくてはならない。


●常識でわかることは省く

“フランスのパリ”は単に“パリ”とすべきである。原文に“フランスの”とあったとしても、日本人の読者で本文のパリがアメリカやドイツにあると思っている人はまずないだろう(実際は他にもパリはあるが。映画『パリ・テキサス』のパリは、フランスではない)。冗長な表現は、読者の意欲を損ない理解を妨げる。


●日本語として適切な表現に留意する

“1枚”は、タペストリーなのだから“1帳”。助数詞を正しく使うこと。


●なるべく定着した訳語を用いる

類書に当たれば「貴婦人と一角獣」というほぼ定着した訳がすぐに見つかるはずだ。さらに調べれば、貴婦人は聖母マリアを、一角獣は純潔を象徴していることがわかる。訳文にはそこまで反映しなくてよいが、深く知っていることは訳文を豊かにする。


●安易にカタカナ表記で逃げない

“サポートしています”は意味不明。この場合原画をみれば、「支えています」という訳がすんなり出るはず。原語をそのままカタカナにしたような使い方は極力避ける。


●誤読や訳抜け、誤訳は致命傷

そして問題なのが、“5点のタペストリーは様々なシーンを表していると考えられています”という一文。これは一読、奇妙である。“様々なシーンを表している”のは図版を見れば明らかなことで解説するまでもない(と訳しながら気づくべき)。原文を見ると、なんとthe sensesとあるではないか。“五感”。ここをscenesと誤読したために、訳者は“傾聴”などという苦し紛れの作品名を発明することになってしまったのだ。

推敲すれば気づくはずの問題。なのに見落としたということは、この訳者が原文の理解にかまわずただ機械的に“訳した”ことの証だ。駆け出しの翻訳者が誤読や訳抜けに気づかぬまま編集者に訳文を渡してしまっては、「信用できない」と判断されること必至。二度と使ってもらえないだろう。


【常識と想像力】

翻訳者に求められる能力は、語学力、表現力、調査力の3つだといわれている。本書でも、次章以下、それぞれを伸ばす方法について述べていく。

けれど、本当に一番大切な能力は想像力ではないかと私は思う。

日本で最も偉大な翻訳書『解体新書』が、まさしく想像力の賜物だった。この翻訳がいかに困難なものだったかは、杉田玄白が晩年著した『蘭学事始』に明らかだ。

千住骨ヶ原で初めて腑分けを実見した玄白、前野良沢、中川淳庵の3人が、帰途『ターヘル・アナトミア』の翻訳を約束し、翌日、良沢邸に集まったときの模様が、こう描かれている。

〈ターヘル・アナトミアの書にうち向ひしに、誠に艫舵なき船の大海に乗り出だせしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、たゝ゛あきれにあきれて居たるまでなり〉(緒方富雄校註『蘭学事始』改版、岩波文庫)

なにしろ、オランダ語を解するのは良沢のみ。それも前の年、長崎で覚えたばかりなのだからおぼつかない。まずは見当のつきやすい全身図からとりかかることになるのだが、はじめは英語でいえばitやofにあたる単語にも戸惑うばかり。牛歩のごとき進行で、やっと「鼻」までたどり着いたものの、またしても不明の単語がでてきてしまった。「フルヘッヘンド」。

当時は「蘭和辞典」などない。やむなく、良沢が長崎から持ち帰ったオランダ語の書物で用例にあたってみた。すると、

〈木の枝を断ち去れば、その跡フルヘッヘンドをなし、また庭を掃除すれば、その塵土聚まりフルヘッヘンドすといふやふに読み出だせり。……翁思ふに、木の枝を断ちたる跡癒ゆれば堆くなり、また掃除して塵土聚まればこれも堆くなるなり。鼻は面中にありて堆起せるものなれば、フルヘッヘンドは堆(ウヅタカシ)といふことなるべし。然ればこの語は堆と訳しては如何といひければ、各々これを聞きて、甚だ尤なり、堆と訳さば正当すべしと決定せり。……かくの如きことにて推して訳語を定めり〉(前出書)

辛苦の果てに決めた「堆」という訳語も、最終的には使われなかったという。もっと適当な訳語を求め、さらに推論を重ねたということだろう。

もとより『解体新書』は誤訳だらけである。それは玄白自ら認めている。どうしてもわからない単語は「この語解せず」と注をつけてすませた。それが不満で良沢は巻頭に名を連ねることを辞したともいわれている。『ターヘル・アナトミア』という原著名からして誤解・誤読にもとづくものだということが現在ではわかっている。

しかし、今から比べればほとんど情報量ゼロともいえる中で、彼らは曲がりなりにも翻訳を敢行したのである。執念の想像力なくしてなしうる作業ではなかった。それがいかに日本の医学の発展に寄与したかはいうまでもない。想像力・推理力のたくましい人間にかかれば、ほんのわずかな情報も訳文を明晰にする糸口になりうるのである。


〔常識を働かせた推論を〕

現在では、翻訳家がある特殊分野の専門家である必要は毛頭ない。そればかりか、インターネットを通じてありとあらゆる情報が入手できるようになり、田舎暮らしをしていても立派に翻訳業が成り立つ世の中になった。それだけ翻訳家としての生存競争は厳しくなったともいえるだろう。

同じ辞書、同じ情報を有していても、適切に訳せる翻訳家と誤ってしまう翻訳家がいる。あるいは、苦もなく訳出する訳者と呻吟する訳者がいる。両者の違いを見ていると、どうも、情報処理能力に差があるように思われる。例えば、あまたある訳語の中から適切な訳語を拾う能力、不明の事柄をどうやって調べるか判断する能力、このあたりに大きな開きがあるのだ。コンピュータにたとえるなら、総合的な判断を瞬時に行う並列処理マシンと、直線的な推論を幾度も重ねるフォン・ノイマン型マシンの違いだろうか。

「それは経験の差が生み出すもので、初心者にはどうしようもないのでは」と思う方もいるだろう。実際、翻訳業界では、「トラック一杯分」「10年間」の翻訳経験を積んではじめて一人前、といわれる。しかし、ただ数をこなせばいいというものではない。培うべきは、常識や知識をもとに推論する力だ。

私が翻訳学校で講師をした際、用いたテキストの中に“the western language”という言葉があった。これを受講生の何人かが「西欧の言葉」と訳してきた。しかし、ずっとアメリカの話が続いているのに、そう訳しては意味が通りにくい。かりに最初「西欧の」という訳語が浮かんだとしても、おかしいな、と感じる常識が必要だ。そこで話を遡ってチェックすると、モンタナ州について触れてある。たとえアメリカについて詳しくなくても、勘のいい人なら、ここで地図を開くはずだ。すると、モンタナ州が北米西部に位置することがわかる。かくして、「西部の言葉」という適切な訳にたどり着けるのである。

また、いささか古くなったがよく知られた誤訳例として、こんなものがある。某百科事典の日本語版。18世紀に活躍したある科学者の項目。「彼の父は自動車の運転手であった」(!?)。もちろん、18世紀に自動車はない。正解は「馬車の御者」であろう。ケアレスミスといってしまえばそれきりなのだが、この種の誤訳はけっこう多いものなのである。訳す際、このcarは「18世紀の話だから、自動車じゃないな」といった常識的な推論が働いていれば、間違わずにすんだろう。

言葉の意味を取り違えるのは、ごく簡単な単語の場合が多い。おそらく、簡単な単語の場合、特定の訳語が条件反射的に浮かんでしまうからだろう。これでは受験生の英文和訳である。意味が文脈や状況に依存して発生するものである以上、文章の背景をなす様々な事柄をしっかり頭にたたき込んでおくことが必要だ。そうすれば、常識的な推論の導きによって、最初に思いついた訳語をチェックすることができるようになる。


〔調べ方のセンス〕

まったく見当がつかない単語に出くわすと、プロでも戸惑うものである。ただし、アマと違って彼らは、そこから脱出する方法を幾通りも身につけている。どういった文献を読むべきか。どういった図書館、資料館に行くべきか。在日公館に尋ねてみようか。いや、誰それは詳しいから彼に聞いてみよう。こういった解決策が、瞬時にいろいろ浮かんでくる。

手練の翻訳者、小鷹信光氏の著書『翻訳という仕事』(ジャパンタイムズ)の中に、こんな一節がある。


かつての戦友についての記述の中に〈up around Vaux〉で彼の部隊に配属されたことがあるというくだりがあるのだが、……地名辞典にあたってもVaux はでてこなかった。こういうときは生き字引に頼るしかない。ここにでてくる戦争は当然、第一次世界大戦である。〈up〉というからには、北部戦線だろう。〈around〉はどちらかの部隊がぐるりと包囲している小さな町の感じだ。

これだけの手がかりをもとに、私が調べものを頼んだ相手は、かつて戦記物の大作にとり組んだ実績のあるベテラン翻訳家の永井淳氏だった。だが、いかな永井氏といえども、いきなり「ヴォー」といわれて即答できるはずがない。答えがでるまでに二日ほどかかった。「ヴォー」はVaux-Devant-Damloupのことで、Le fort de Vauxで知られる激戦地だったのである。

どうやって調べだしたのか、手の内までは尋ねなかったが、さすがモチはモチ屋だ。しかしこの調べものが、そうたやすいものではなかったことも、私には察しがつく。みつけだす方法はすぐ見当がついたとしても、かなりの手間がかかったはずだ。こういう生き字引きが友人の中にいること自体を感謝しなければならない。


翻訳家にとっても、持つべきものは友、なのである。

しかし、誰もが優秀な友人に恵まれるわけではない。自力更生で切り抜けるにはどうしたらいいか。私が頼まれたとしたら、きっと次のような手順で調べたことだろう。

まず、第一次世界大戦の北部戦線と、そこまでわかっていれば、当然、Vauxがフランス語であることは見当がつく。そこで、

@百科事典をひく(平凡社世界大百科事典にはなし、学研ミリオーネ全世界事典にもなし)
A大型の仏和辞典をひく(なかった)
B大型の仏仏辞典をひく(プチ・ロベール辞典にあり)
翻訳家なら、フランス語だけでなく主要な原語は辞書をひけるぐらいであってほしい。この程度のことは1言語3日もあれば学習できる。
これでダメなら、
C詳細な世界地図(フランス地図)をひく
D戦史をひもとく(『20世紀全記録』講談社、1961年10月の項に「……ボー要塞に向かって進軍中」とあり)
いよいよ最後は、
E大使館に尋ねる(これは必ずわかるが、迷惑がかかるので多用しないこと)
永井氏といえども、きっと同じような方法をとったはずだ。つまり、これは翻訳家の種明かし。ひとそれぞれに好みの調べ方はあるだろう。しかし、要点はおなじだ。常識と推論。つまるところ翻訳とは、置き換えではなく謎解きなのである。おカネをもらいながら謎解きに熱中できるなんて、やはり魅力的なビジネスといえないだろうか。
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