自分を知るということ 執筆者:北川知子(出版翻訳者)

転職をはさんだ一時期、コーチングを受けていたことがある。説明するまでもないと思うが、日本コーチ連盟の定義を借りれば、コーチング(coaching)とは、「本人特有の感情や思考のはたらきを行動の力に変えることで、目標達成や自己実現を促すコミュニケーション技術」である。このスキルを備えたコーチとの対話を週通して、行動を妨げている要因を明らかにしていくのだが、週に一度、あるいは隔週で一時間程度を費やすことが多いようだ。

私の場合は、たまたま、ネットサーフィンをしていてコーチのサイトに行き当たり、初回は無料だったこともあって軽い気持ちで受けてみた。そのときに言われた「人間は、案外自分のことがわかっていないものだから」という言葉が妙に気になり、始めてみることにした。

心理学的には、1~5%の「顕在意識」の下に、95~99%の巨大な「潜在意識」が存在し、この潜在意識が行動を決定すると言われている。私自身は、コーチングを通して、自分では気づいていなかった考え方の癖のようなものをたくさんみつけることができた。

翻訳に関して言えば、現在のように翻訳を仕事にする前には、翻訳者になりたい、いや、ムリだ、なりたい、ムリだと自問自答を繰り返していた時期があった。ふくらみ続ける「なりたい」という気持ちと現実との間を、振り子のように行き来して悩んでいたような気がする。

そんな私にとっては、家族や友人のような身近な存在とはまた違った、まったくの第三者とも言えるコーチのサポートを得て、自分がこれからの人生で何をしたいのかを、一時期、とことん考え抜く時間を持つことができたのは幸運だった。結果的に、前の職場を離れて翻訳の仕事をするようになったけれど、おそらく私のコーチは、私がどのような結論を出そうと、自分なりに考え抜いた末の結論をよしとしてくれただろう。

だからと言って、このブログを読んでくださっている方に、みなさん、コーチングを受けましょうとお薦めしているわけではない。ただ、自分がどういう特性を持っているのか、何が好きで何が嫌いなのか、何が得意で何が不得意なのか。そういったことがある程度わかっていれば、エネルギーをムダに使わなくてすむ。

たとえば、一冊の本を訳すというプロセスのなかで、私はどこが一番好きなのだろう、と自分に問いかけてみるのもいいかもしれない。原文を読む、理解する、日本語で訳文を作る、調べものをする(関連した本を読む、事実関係を確認する)、訳文を読み直す、校正する。さまざまな作業のなかには、やっていてワクワクするものもあれば、どうも苦手だというものもあるかもしれない。

毎日の生活で言えば、コンスタントに作業を進めていけるタイプなのか、あるいは、計画どおりに進めるのは苦手でも、ラストスパートでは思いっきりがんばれるタイプなのか。出版翻訳では一冊自体の分量が多いので、さすがにラストスパートだけでは乗り切れないけれど、自分なりのペースがわかっていれば、「そろそろ飽きてくる頃だから、この辺でリフレッシュしよう」とか、「ここから一気に攻めよう」とか、手綱を調整できるに違いない。

自分では好きだと思っていても、実際には何か別の要因によって、そう思い込んでいるだけという場合もある。自分でも気づいていないもつれた糸を一人で解きほぐすのは簡単ではないが、自分自身に問いかけてみるだけでも何かが見えてくるかもしれない。

組織を離れて仕事をするようになって、一番厄介なのは、自分の精神面のコントロールだ。気が小さいせいもあるのだろうけれど、たえず不安にさいなまれ、不安に押しつぶされそうになる。そんなとき私は、翻訳を通して何がしたいのか、なぜこの仕事を始めようと思ったのか、コーチングを受けていたときに何度も何度も繰り返したコーチとの対話を振り返るようにしている。それで魔法のように不安が消えるわけではないにしても、原点に立ち返れば、不思議と気持ちが落ち着き、エネルギーが湧いてくるものだ。

コーチングでは、「答えはその人のなかにある」と考えるが、確かにそのとおりで、答えは自分のなかにしかないということを、私はコーチングを通して教わったのだと思う。

 

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