ダンサーと役者と翻訳者  執筆者:北川知子(出版翻訳者)

「翻訳」に近い仕事は何だろう? そんなことを暇にまかせてぼんやり考えることがある。「表現する」、「伝える」といったジャンルで思い浮かぶのは、クラシック音楽の演奏だ。朝から晩までPCに向かう地味な翻訳家と、華やかなドレスをまとってスポットライトを浴びる演奏家とは月とスッポンだけれど、たとえばモーツァルトが作った曲を自分なりに解釈して再現するという行為は、原書を読み、理解し、解釈し、著者が日本語で書いたなら、きっとこうだろうというものを作り上げていく過程と似ているように感じる。

先日、ダンサーで、朝ドラにも出演中の田中泯さんのインタビュー記事を読んだが、なかなか興味深いものだった。

「ダンサーは、“空っぽ”が原則で、そこにいろいろな人格が入り込んでくるというのが、ダンサーの質感で、“私は○○です”というように自己主張するようなダンスは駄目ですね。役者は基本的に“器”だと思っています。その“器”に役が入ってきて、声も顔も自分のものだけれど、その人になるというのが役者の使命だと思うので、表現の上でははっきりと差異はありますが、体の中に自分以外のものが入ってくるという意味では、ダンサーと役者は近いものがあるのではないかと思います」

ダンサーと役者を「器」という視点で見ておられる。私も、翻訳ではできるだけ「空っぽ」でありたいと思うのだけれど、気づかぬうちに自己主張してしまうときもある。

自己主張は、文体にあらわれるものだろう。訳者の文体によって出来上がってくるものは大きく違ってくる。私はもっぱらノンフィクションの翻訳をしているが、作品ごとに意識して、大きく文体を変えているわけではない。出版社から求められるのは、「読みやすさ」である場合が多く、当たり前のことだが、奇をてらうことなく、ごく普通の言葉で表現するよう心掛けている。

とはいえ、毎回、それでうまくいくとは限らない。訳稿を送付し、ときにはゲラになったあとで、「もう少し読みやすく、やわらかい文体に」との指示をいただいたこともある。役者にたとえれば、監督がイメージしていたような演技ができていなかった、ということになる。

役者たるもの、監督の指示には従わなければならないが、いったん骨太に組み立ててしまったものを、部分的にやわらかくして修正すれば妙にアンバランスなものになるし、かといって全部を組み立て直すだけの時間はない。反省することしきりだが、反省していても仕事は進まないのだから、少しでも意向に沿うべく、ゲラを前に奮闘することになる。

役者さんを見ていると、同じ人が演じているとは思えないほど与えられた役柄になりきるタイプと、どの役を演じていてもその人の個性がにじみ出るタイプと二種類あるようだ。翻訳でも、できれば前者のように作品に寄り添う自分でありたいと思う。

 

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