三つ子のたましい 執筆者:田中千鶴香(実務翻訳者)

 のっけから自分の話で恐縮だが、自己紹介代わりに幼いころの思い出ばなしを――

 4、5歳のとき、お風呂に入ると湯船につかって数を数えるのが日課だった。「い~ち、に~、さ~ん、し~……」と大きな声でとなえ、「じゅう」と叫んで湯船を飛び出すのである。

 ある日いつものように数えて外に出ようとしたら、お風呂に一緒に入っていた父が「10の次は11」と唐突に言った。なぜ父が急に数え方を教えようとしたのかはわからない。湯船に娘を長くつけておきたかったのかもしれない。

 「じゅう…いち」とつぶやいて私は父の声を待った。父は「11の次は12」と言った。「じゅうに」と私は復唱した。そして「19」にたどり着くと父は「20」と言った。どうやら私が思っているよりも数はたくさんあるらしい。ぼおっとしながら50まで数え、そこで父は「終わり!」と宣言した。私は少しのぼせて、でも十分に温まって湯船を出た。
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 すぐに私は50までの数をおぼえた。毎日数えるとペースがどんどん速くなり、50まで数えてもたいして時間がかからない。数をたくさん知っていることがうれしくて、毎日元気に数えていた。

 それからしばらくして私は、天と地がひっくり返るような体験をする。近所に同じ幼稚園に通う男の子がいた。その子の家に遊びに行ったとき、なにかのはずみで一緒に数を数えることになった。「い~ち、に~……」と声を合わせて数えていったが、その子は10か20で数えるのをやめてしまった。「えへん、私は終わりまで知っている」。そう思いながら得意になって50まで数えた。そして「終わり!」と宣言した。

 すると、その子のおばあちゃんが言った。「〇〇ちゃん、すごいね。よく知っているね。でも50で終わりじゃないのよ」。私はエッと思った。「50の次は51だよ」。私は頭が混乱した。「ごじゅう」で終わりじゃないんだ! 「ごじゅう…いち」がある。じゃあその次は?

 続きを誰に教わったか憶えていない。記憶にないということはおそらく母に教わったのだろう。父は多忙なサラリーマンで帰宅はいつも深夜だった。私は、わからないことがあればなんでも母に聞いた。そのころ私たちは敷地が千坪ほどある親戚の留守宅に住んでいた。母は広い家と庭の世話で忙しく、幼い弟にも手がかかった。だから私が質問すると、母はいつも実に面倒くさそうな顔をした。

 それでも私は50より先の数を教えてもらった。そして、「はちじゅう」と口にするころには、それまで知らなかった数のカラクリが少しずつ頭の中で姿を現していた。私の心は高揚した。

 さっき「はちじゅう」と言ったのだから、「はちじゅう…きゅう」まできたら、次は「きゅう…じゅう」になるに違いない。そんな風に予想するようになる。そして実際に「きゅうじゅう」がやってくると、いっそう興奮した。

 そしてついにクライマックスを迎える。「きゅうじゅうきゅう」まで来た。さぁ次は? 「ひゃく」。なんと、聞いたことのない言葉が出てきた。では「ひゃく」の次は?「ひゃく…いち」。「おお、おお、おお、ひゃくいち、ひゃくいち」と私は心の中で叫んだ。

 「ひゃく…いち」の次は「ひゃく…に」、「ひゃく…に」の次は「ひゃく…さん」、「ひゃく…さん」の次は「ひゃく…よん」。また振り出しに戻ったのである。なんということだ! とうとう私はすべての数を征服したのだ。すばらしい万能感。身震いするような感動だった。

 しかし残念ながら、幼い私に発見できたのはそこまでだった。「百」の先には「千」や「万」があり、数には「終わり」もないのだが。もし、そのようなことまで考えを膨らませることができたら、私は天才少女になれたのかもしれない。しかし好奇心は旺盛でも、天才にはほど遠かったのである。

 さすがにお風呂で100より先まで数えるとのぼせてしまう。そのうち数を数えることにも飽きてしまった。

 さて前置きが長くなった。これから一年間ブログを執筆させていただく。三つ子の魂百までというが、幼いころの好奇心はなぜか衰えることがない。主に言葉と翻訳について疑問に思ったこと、驚いたことなどを書いていきたいと思う。おつきあいいただければ幸いである。

 

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