クリストファー・ロビンの王国(11) 執筆者:水野美和子

このブログを2019年の4月から書き始めていますが、つくづく災禍に見舞われた一年でしたね。(まだ終わっていませんけれど)。8月は猛暑、9月は台風、10月は大雨を連れた台風。そしてこの2月は全世界的に広まりつつある新型コロナウィルスです。

今はせめて、できることをしっかりとやるしかありませんね。うがいと手洗い、充分な食事、しっかりとした睡眠。体を疲れたままにしないように心がけて過ごしたいです。来月このブログを書くころには、好転していますように。

 

【クリストファー・ロビンのうた/When We Were Very Young】

 

今月はプー関連の本として、『クマのプーさん』の作者ミルンの最初の子ども向け詩集”When We Were Very Young”の日英の読み比べをします。

今回使用した本はこちらです。

 

■”When We Were Very Young” By A. A. MILNE, Illustrated by ERNEST H. SHEPARD, Puffin Books

■『クリストファー・ロビンのうた』(A.A.ミルン著、E.H.シェパード 絵、小田島雄志/小田島若子訳、晶文社、1978年)

 

ちなみにこの ”When We Were Very Young” の翻訳は、『クマのプーさん全集』(A.A.ミルン著、E.H.シェパード 絵、石井桃子/小田島雄志/小田島若子訳、岩波書店、2003年)にも収められています。E.H.シェパードの挿絵が豪華に彩色されていて目にも楽しいです。

 

先月のブログでご紹介した、ミルンの自伝『今からでは遅すぎる』(A.A.ミルン著、石井桃子訳、岩波書店、2003年)によると、幼いクリストファー・ロビンの可愛らしい姿にうたれて、ミルンが、詩“ Vespers”(おやすみのおいのり)を書いたのがきっかけで、一連のプーの作品が生まれたとあります。

その “Vespers” も、この “When We Were Very Young” の最後に収められています。

 

まずプー関連の本の出版年を確認します。自伝『今からでは遅すぎる』の457頁によると、出来事は年代順に、

 1882年 ミルン生まれる

 1920年 ミルンの息子、クリストファー・ロビン生まれる

 1924年 詩集”When We Were Very Young”(『ぼくたちがとても小さかったころ』)出版

 1926年 “Winnie-the-Pooh”(『クマのプーさん』)出版

 1927年 詩集”Now We Are Six”(『ぼくたちは六歳』)出版

 1928年 “The House at Pooh Corner”(『プー横丁にたった家』)出版

 1939年 自伝 “IT’S TOO LATE NOW”(『今からでは遅すぎる』)出版

 

この年表から考えると、ミルンは息子が三歳の時に、詩 “Vespers” を書いたようです。

実際、”When We Were Very Young” の献辞には、クリストファー・ロビン・ミルンの名が書かれています。

「ビリー・ムーンと呼ばれたがっているクリストファー・ロビン・ミルンへ」 とあります。

「息子は家の中でビリー・ムーンと呼ばれているのだから、クリストファー・ロビンという名前を書物に書いて、全世界へ公開したとしても、息子に影響を及ぼすことはない」 とミルンは考えていたんですね。ミルンのこの認識が、クリストファー・ロビンの人生を大きく狂わせてしまったのですけれども。

 

全四十五作品のうち、あからさまに詩の中にクリストファー・ロビンの名が含まれている詩が四編あります。(バッキンガムきゅうでん、ぴょこん、つまさきのあいだのすな、おやすみのおいのり)。

音の響きだけでも心地のよい、名作です。自分の気持ちに正直な子どもの姿を描いています。この四編以外にも、この詩に出てくる男の子は、クリストファー・ロビンなのだろうと思える詩が沢山あります。

 

ミルンは自伝『今からでは遅すぎる』の十四章で、「子どもの自己中心さ」や「子どもの肉体的美しさ」といった感傷主義に陥らないように子どもを描くのは難しい、と書いていました。

実際、『クマのプーさん』は可愛らしいだけのぬいぐるみの物語ではありませんでした。プーもコブタも、ウサギもフクロも、みんな、食欲や名誉欲など、自分の欲望に忠実で、それが恥ずかしくて滑稽なところもありましたが、だからこそ、それぞれにしっかりとした存在感があり、共感させる物語でした。そこがミルンの筆の力ですし、それがプー達のことだけならよかったのです。プー達と同様に自己中心さを詩や物語に描かれてしまったクリストファー・ロビンの姿は、現実のクリストファー・ロビンを圧倒してしまったのだと思います。

 

”When We Were Very Young”には、太っていることを悩んでいるプーそっくりなクマのぬいぐるみが出てくる詩 “Teddy Bear” もあります。

 

“Rice Pudding”/「メアリー・ジェーン」

どの詩も面白いのですが、まずは、“Rice Pudding” をご紹介します。

原書はこんな感じです。

テーブルに向かって座わらされていて、癇癪を起している女の子がいますね。靴が吹っ飛んでいて、画像右下のお人形は、かなり強く投げられたようで、かつらがとれて丸坊主になっています…。

詩の最初の部分を抜粋します。

 

原文:

What is the matter with Mary Jane?

She’s crying with all her might and main,

And she won’t eat her dinnerrice pudding again

What is the matter with Mary Jane?

小田島訳:

どうしたんだろう メアリー・ジェーン

ごはんもたべずに なんだかへん

ないてばっかり エーン エン

どうしたんだろう メアリー・ジェーン

 

※韻の部分を水色にしました。

 

小田島訳も行末で韻が踏まれていますね。

三行目に “And she won’t eat her dinnerrice pudding again” →「今回も晩ご飯を、ライス・プディングを、食べようとしなかった」とあります。

メアリー・ジェーンはライス・プディングが嫌で泣いていたんですね。

でも小田島訳にはライス・プディングという記述がありません。ただ、詩の最後の方で「プリン」という言葉が使われています。

 

2020年でも、ライス・プディングと聞いて、具体的な食べ物を思い浮かべるのは正直、難しいです。

この翻訳が出版された1978年頃ならなおさら、「ライス・プディング」を日本語訳の詩のタイトルにしても、ピンとこなかったと思います。だから、小田島訳では、この詩のタイトルをライス・プディングが嫌いで泣いている女の子の名前「メアリー・ジェーン」にしたのでしょう。

 

ちなみに、“pudding” について、身近なイギリス人に聞いてみましたが、いろんな形態があるそうです。

例えば、チョコレート菓子のゴディバなんかでよくあるペースト状の甘いものをチョコレートでコーティングしたお菓子もプディングと呼びます。ここに出てくる “rice pudding” は、砂糖と牛乳で煮たお米で、デザートです。

 

「僕は日本の友人達とバーベキューをやるときに、よくライス・プディングを作るんだけど」と、そのイギリス人が言います。

「日本人は嫌がって絶対に食べてくれないんだ。美味しいのに! 甘いお米なんて絶対に許せない、って言われるんだ。でも日本には、あんことお米を合わせた甘いおはぎだってあるじゃないか?」

慣れない食べ物に対して人は、警戒してしまいますものね。

ライス・プディングの作り方を聞いていると、オートミールに似ている気がして、質問しました。

「もしかしてライス・プディングは、牛乳で炊くという点で、オートミールに似ている?」

「少し似ている。でも日本人はオートミールが嫌いな人も多いよね」

オートミールが嫌いな人、多いですよね。私は大好きで小学生のころ、オートミールを毎朝自分で作っていました。

絵本で、タイトルは忘れましたが、大・中・小の三匹のクマが美味しそうにオートミールを食べている物語を読んで、母に買ってきてもらったのです。クエーカーオートミールです。出来立てが一番美味しいので、寝坊しなかった日には必ず自分で作っていました。そうそう、オートミールは蒸らす手順が大事なんです!

不味いと言う人たちは、本当に、充分に蒸したオートミールを味見なさっているのでしょうか。そうでないのならオートミール愛好家としては、ともかくしっかりと牛乳を足して蒸して、ふっくらもっちりしたオートミールを食べていただけるよう、お願いしたいです。

 

…ごめんなさい、話がずれました。

オートミールに似ているのなら、ライス・プディングも美味しかろうと、適当にお米とバターと牛乳と砂糖で作ってみました。バターのおかげでちょっとだけカスタードクリームに近いようなほんのりした味で、ジャムやらハチミツやらで、味付けすれば結構美味しいと思います。少なくとも、メアリー・ジェーンのように泣き叫ぶような嫌な味ではなかったです。でも、見かけがとても地味だったので、ここに写真は載せません…。

 

“Spring Morning”/「はるの朝」

 

次は、私のお気に入りの "Spring Morning" の読み比べをします。

原文:

Where am I going? I don’t quite know.

Down to the stream where the king-cups grow

Up on the hill where the pine-trees blow

Anywhere, anywhere, I don’t know.

小田島訳:

ぼくはどこにいくんだろ

キンポウゲがさく小川

松の木がそびえるおかのうえ

どこに どこに いくんだろ

 

原文:

Where am I going? The Clouds sail by,

Little ones, baby ones, over the sky.

Where am I going? The shadows pass,

Little ones, baby ones, over the grass.

小田島訳:

ぼくはどこにいくんだろ

空にはちいさな雲 あかちゃん雲

ぼくはどこにいくんだろ

草のうえには雲のかげ あかちゃんかげ

 

原文:

If you were a cloud, and sailed up there,

You’d sail on the water as blue as air,

And you’d see me here in the fields and say:

"Doesn’t the sky look green today?"

小田島訳:

もしもきみが雲になって

青い空をはしるなら

野原のぼくをみつけていうだろう

「きょうの空はきれいだろう?」

 

原文:

Where am I going? The high rooks call:

"It’s awful fun to be born at all."

Where am I going? The ring-doves coo:

"We do have beautiful things to do"

小田島訳:

ぼくはどこにいくんだろ

「うまれてよかった」ってカラスがい

ぼくはどこにいくんだろ

「いいことしよう」ってハトがい

 

原文:

If you were a bird, and lived on high,

You’d lean on the wind when the wind came by,

You’d say to the wind when it took you away:

"That’s where I wanted to go today!"

小田島訳:

もしもきみが鳥になって

風にのって空をとぶなら

風にむかっていうだろう

「きょうはあそこへいきたいんだ」

 

原文:

Where am I going? I don’t quite know.

What does it matter where people go?

Down to the wood where the blue-bells grow

Anywhere, anywhere, I don’t know.

小田島訳:

ぼくはどこにいくんだろ

だれもいかないところ

ツリガネソウがさく森

どこに どこに いくんだ

 

※韻の部分を水色にしました。

 

日本語訳では、「どこにいくんだろう」「いうだろう」「きれいだろう」と、語尾の「ろう」が繰り返されて、優しい少年の憧れの気持ちがリリカルに謳われていて、素敵な翻訳になっています。

さらに同じ個所を原書で読むと、今度は英語のリズム感と韻の響きの華々しさに驚かされます。

 

例えば、詩の中での、カラスやハトの言葉について。原文では小田島訳よりも、強めの主張になっています。

"It’s awful fun to be born at all."

(直訳:生まれきて、とても楽しい)→「うまれてよかった」

"We do have beautiful things to do"

(直訳:素晴らしいことをしよう)→「いいことしよう」

 

最初の一行の訳も、不安の混じった原文に比べて、小田島訳はほんわりした憧れの気持ちの方が前にでています。

Where am I going? I don’t quite know.

(直訳:どこに僕は行くのだろう?僕には全く分からない)→「ぼくはどこにいくんだろ

 

翻訳する時には、原文に含まれるさまざまな要素の中から、何を優先して表現するかを決めて、全体のバランスと響きとリズムをそろえることがわかりました。

この絵本を手にする日本の子どもたちには、きっとこういうほんわりした憧れの言葉が、一番きれいに届くのだろうな、ということも腑に落ちました。

 

終わりに

 

詩集の比べ読みを通して、原書の韻と繰り返しの楽しさを堪能しました。

また、描かれている子どもの自己中心的な態度がとても奔放で、いわゆる「よいこ」の枠を超越していて、想像以上の面白さでした。さらに、子どもだったころの独特の時間感覚、自分の家にいながらどこかへ帰りたくなる奇妙な感覚、根拠のない遠くへの憧れなどを思い出しました。

そんな素敵な詩の翻訳のやり方を、今回は小田島訳で勉強しました。

日本語に比べると助詞が無くて、韻を踏んでいて勢いのある英語は、ストレートでスピード感がありました。そんな英語を日本語に訳すのはとても難しいことで、それが数ページの短い詩ならなおさらです。

日本の読者の状況に合わせて、詩のどの特徴を選び取るかを決めるのも翻訳の作業のうちと理解しました。

内容を伝えつつ、同じように韻を踏める言葉を選び、原文に近いリズム感も取り入れて、全体のバランスを整える。このように目配りするべきポイントが沢山ありました。

 

次回は、もう一冊の詩集”Now We Are Six”(『ぼくたちは六歳』)を読み比べします。