クリストファー・ロビンの王国(4) 執筆者:水野美和子

先日、展覧会『井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士』を観てきました。

昭和初期に新興郊外だった阿佐ヶ谷や荻窪あたりに売れない文芸作家たちが移ってきて、井伏鱒二を中心に将棋と酒で憂さを晴らしていた集まりが、戦後に純然たる飲み会としての「阿佐ヶ谷会」になったのだそうです。

この阿佐ヶ谷会ゆかりの人物やゆかりの品が展示されていて、特に井伏鱒二筆の「勧酒」の書が、言葉も筆遣いものびのびとしていて、なごみました。これは于武陵(う ぶりょう)の唐詩「勧酒」の「花發多風雨 人生足別離」という部分の翻訳だったんですね。

 

はなにあらしのたとへもあるぞ

さよならだけが人生だ

 

井伏の弟子だった太宰治の若い頃の写真や、上林暁が半身不随になってから左手で書いた執念の原稿も印象的でした。

※杉並文学館:https://www.city.suginami.tokyo.jp/histmus/1009074.html

 

この杉並文学館で、過去の展示会『石井桃子 ―子どもと本の幸せな出会いを求めて―』(2011年6月-8月)の図録を見つけました。

石井桃子の仕事や主な作品がコンパクトにまとまっています。

杉並区立郷土博物館にて購入(全8頁、100円)

 

図録によると、昭和十三年(1938)より荻窪で暮らし始めた石井の近所に井伏が住んでいて、家族ぐるみで葉書のやりとりを行っていたようです。二人の出会いはもっと前、石井が文藝春秋社の編集者だった昭和五年(1930)頃で、井伏は優秀な編集者の一人として石井の名を挙げて評価しています。

 

また、井伏訳の 『ドリトル先生』 シリーズ(ヒュー・ロフティング)の下訳をしたのが石井だったと知り、とても驚きました。

『くまのプーさん』の他、『ピーター・ラビット』 シリーズ(ビアトリクス・ポター)、ディック・ブルーナの絵本等が石井の仕事であるのは有名ですが、さらに『ドリトル先生』 シリーズにも関わっていたとは!

私が子供の頃に親しんだ本は、そっくりそのまま石井が手がけた本ばかりかもしれません。

 

ちなみに、“Do Little” を「ドリトル」 と表記することや、「頭が二つで胴体が一つの珍獣」を「オシツオサレツ」と命名したのは、井伏だそうです。

 

では今月も『クマのプーさん』(著者:A.A.ミルン/訳者:石井桃子/出版社:岩波書店/出版年:1957年)と原書の比較読みをします。

 

      *      *      *      *      *

 

【4章:イーヨーが、しっぽをなくし、プーが、しっぽを見つけるお話/Chapter Four in which Eeyore loses a tail and Pooh finds one】

 

あらすじ:

・年とった灰色ロバのイーヨーのところにクマのプーがやってきます。

・イーヨーが憂鬱で、尻尾が無いことに気が付いたプーはイーヨーの尻尾を探しに出かけます。

・あちこち探した後、プーはフクロの家に行って、イーヨーの尻尾を見つける方法を相談します。

・尻尾を見つけたプーはイーヨーのところへ持って帰ります。

 

■フクロの家の玄関の張り紙

フクロの家の前に来たプーは、戸たたきと、鈴をならす鈴ひもそれぞれのはり紙を眺めます。

 

石井訳: 戸たたきの下には、はり紙がしてあって、

原文  : Underneath the knocker there was a notice which said:

 

石井訳:   ごよのあるしとひぱてください

原文  :   PLES RING IF AN RNSER IS REQUID

 

石井訳: と書いてあり、鈴ひもの下には、はり紙がしてあって

原文  : Underneath the bell-pull there was a notice which said:

 

石井訳:   こよないしとたたてください

原文  :   PLEZ CNOKE IF AN RNSER IS NOT REQUID.

 

石井訳: と書いてありました。

このはり紙は、森じゅうで、字をまちがえずに書けるただひとりの住人、

クリストファー・ロビンの筆になったものなのです。

原文  : These notices had been written by Christopher Robin,

who was the only one in the forest who could spell;

 

さて、どこから料理していきましょうか。

 

① ごよのあるしとひぱてください=PLES RING IF AN RNSER IS REQUID

 

わざと間違えている、それでいて何となく意味が伝わる文章の翻訳は難しそうです。

 

本来の意味は、「御用のある人は(鈴ひもを)引っ張ってください」でしょう。

すると英語は、“Please ring if answer is required” となります。

 

(でもこれ、戸たたきの下に貼られていますけれどね)

 

しかし、“AN RNSER” が、“answer” の間違いと断定してはいけないような気がします。

はり紙の二つともに“AN RNSER” があり、“AN”のあとは1文字空いています。

これを書いた人(すなわち、「森じゅうで、字をまちがえずに書けるただひとりの住人、クリストファー・ロビン」)は、“AN RNSER” を「冠詞<a>+名詞」 のつもりで書いていたのではないでしょうか。

 

そこで、RNSER を Lexico Dictionaries (https://www.lexico.com/en/definition/responser)で調べました。

RNSERはありませんでしたが、似た単語として表示された候補の中から、こちらが見つかりました。

 

responser: [NOUN] A thing which or person who makes a response; a responder.

応答機、応答者という意味です。

 

クリストファー・ロビンは、これを書く時に “answer”(応答する)と “responser”(応答者) がごっちゃになってしまったのでしょう。

 

② こよないしとたたてください=PLEZ CNOKE IF AN RNSER IS NOT REQUID.

 

本来は、「御用のない人は(戸たたきを)たたいてください」でしょう。

すると英語は、“Please knock if answer is not required” となります。

 

(でもこれ、鈴ひもの下に貼られていますけれどね)

(御用のない人が、フクロの家に行ってわざわざノックするのかしら?)

 

そこで、CNOKE を Lexico Dictionaries で調べました。

CNOKEはありませんでしたが、似た単語として表示された候補の中から、こちらが見つかりました。

 

choke: [VERB] (of a person or animal) have severe difficulty in breathing because of a constricted or obstructed throat or a lack of air.

むせる、呼吸困難になる、という意味です。

 

クリストファー・ロビンは、これを書く時に “Knock”(ノックする)と “choke”(むせる、呼吸困難になる) がごっちゃになってしまったのでしょう。

 

■フクロが懸賞金を提案する

プーは、森いちばんの知恵者フクロにイーヨーの尻尾を見つける方法を相談します。

フクロが難しい言葉を使うので、言いたいことがプーにうまく伝わりません。

 

この部分は、私が子供の頃に読んでいた1957年版だけではなく、石井桃子の最新訳『クマのプーさん全集』(2016年)も一緒に比較します。

 

ちなみにこの『クマのプーさん全集』は分厚く大きく、挿絵はカラーで、物語の他に詩も含めたプー関連の全作品が一冊にまとまっている豪華愛蔵版です。

※『クマのプーさん全集』(岩波書店 1997年 A.A.ミルン 作 , E.H.シェパード 絵 , 石井 桃子 訳 , 小田島 雄志 訳 , 小田島 若子 訳)

https://www.iwanami.co.jp/book/b254622.html

 

下記の比較でご覧のとおり、旧訳→新訳の主な変更は、下記4点です。

・言う→いう

・「、」→「,」

・懸賞金→薄謝

・せき→くしゃみ

 

 

フクロが途中で咳、またはくしゃみをしたと勘違いしたプーは、フクロへ尋ねます。

石井訳: 「あなた、なんて言ったんです? お話の途中でせきをなさったものだから」

新訳  : 「あなた,なんていったんです? お話の途中でくしゃみをなさったものだから」

原文  : What you were saying?

You sneezed just as you were going to tell me.

(以下、本文でのイタリック体表記を緑色にします)

 

石井訳: 「わたし、せきなどいたしませんよ。」

新訳  : 「わたし,くしゃみなどいたしませんよ。」

原文  : ‘I didn’t sneeze.’

 

石井訳: 「しましたよ、フクロったら」

新訳  : 「しましたよ,フクロったら」

原文  : ‘Yes, you did. Owl.’

 

石井訳: 「失礼だが、プーさん、わたしは、いたしませんでした。

知らずにせきをしているということは、ありえないじゃありませんか。」

新訳  : 「失礼だが,プーさん,わたしは,いたしませんでした。

本人が知らずにくしゃみをしているということは,ありえないじゃありませんか。」

原文  : ‘Excuse me, Pooh, I didn’t.

You can’t sneeze without knowing it.’

 

プーは臆せず言い返します。実はプーは論理的な発言をするクマなんです。

石井訳: 「でも、だれかがせきをしなければ、知れるはずがないじゃありませんか。」

新訳  : 「でも,だれかがくしゃみをしなければ,知れるはずがないじゃありませんか。」

原文  : ‘Well, can’t know it without something having been sneezed.’

 

石井訳: 「わたしはね、『まず懸賞!』と、言ったのです。」

新訳  : 「わたしはね,『まず薄謝!』といったのです。」

原文  : ‘What I said was, ”First Issue a Reward”.’

 

石井訳: 「ほら、また、した。」とプーはかなしそうに言いました。

新訳  : 「ほら,また,した。」と,プーはかなしそうにいいました。

原文  : ‘You’re doing it again,’ said Pooh sadly.

 

(中略)フクロが業を煮やして、プーに言葉の意味をきちんと説明します。

石井訳: 「イーヨーのしっぽを発見したものには、なにかたくさんやることを、はり紙に書くのです。」

新訳  : 「イーヨーのしっぽを発見したものには,なにかあげることを,はり紙に書くのです。」

原文  : ‘We write a notice to say that we will give a large something to anybody who finds Eeyore’s tail.’

 

原文は、“First Issue” が くしゃみの音(はっくしょん)に聞こえてしまうという話です。

イーヨーの尻尾に懸賞をかけて、見つけてくれた人へお礼をする方法をフクロは提案しているのですが、プーは難しい言葉がちゃんと聞き取れないのです。

 

1957年の訳では、フクロが「まず懸賞!」と言うと、プーにはフクロが咳をしているように聞こえる話になっていて、2016年の訳では、フクロが「まず薄謝!」と言うと、プーにはフクロがくしゃみをしているように聞こえる話になっています。

懸賞 /kenshou/」の音の響きが、咳の音 /konkon/ に似ているかというと微妙ですが、改訳後の「薄謝 /hakusha/の音の響きは、くしゃみの音/hakushon/ に似ていて、うまい訳語ですね。

 

それでは、Issue Lexico Dictionaries で調べました。

 

Issue: [VERB] Formally send out or make known.

公式に発表すること、という意味です。

 

Rewardは不可算名詞ならば「(善行・功績などに対する)報酬, ほうび」ですが、ここでは “a” がついて可算名詞なので「報奨金, 謝礼金」になります。

 

翻訳の工夫と感じられた箇所はもう一点あって、「しましたよ,フクロったら」 = ‘Yes, you did. Owl.’ のところです。

もしも「フクロったら」が無かったら、かなりよそよそしい会話になるでしょう。

プーはフクロの言葉がよく分からなくても、委縮せず、おおらかに言いたいことを言っている様子です。頭が悪いとわかっていつつも、自分に腹を立てずに、堂々としているから、「フクロったら」と言える余裕があるんですね。

 

それにしても、プーを相手に難しいことを延々としゃべりつづけたフクロですが、上記最後の引用の通り、本気を出せば簡単な言葉でわかりやすく説明できるんですよね。フクロったら。

 

終わりに

今回は、フクロの家の玄関の張り紙をとおして、ぬいぐるみたちのリーダー的存在であるクリストファー・ロビンの筆記力・単語力に驚愕するばかりです。原文であえて間違っている綴りを、間違っているけれども意味がなんとなく伝わる言葉として訳す実例を知りました。

フクロが懸賞金を提案する場面では、石井桃子訳の1957年版と2016年版を比較しました。「言う」を「いう」に変えるだけでも、紙面からの印象が随分変わります。

 

再読して、改めてプーの気持ちが真っ直ぐなところに感動しました。子供の頃にはプーの真っ直ぐな気持ちの方が普通だと思っていましたけれども。

「尻尾が盗まれた」と言いはじめたイーヨーに「探してきてあげる」と約束し、分かりにくいことを延々と話すフクロに対して堂々と自分の考えを言い、見つけた尻尾にイーヨーが小躍りして喜ぶのを見るうち、「すっかりへんな気もちになってしまって」(came over all funny)、そのあと詩を作ったプーへ、嬉しかったよね、誇らしかったよね、と話しかけてやりたくなりました。