イチロー 執筆者:プレーイングマネージャー

 孤高の天才と評された希代のスーパースターが日米通算28年間の野球選手としてのキャリアにピリオドを打ちました。50歳まで現役を続けると公言していたイチロー選手ですが、2012年途中にシアトル・マリナーズからニューヨーク・ヤンキースに移籍して以降は、年齢からくる衰えを隠すことはできず、寂しい成績が続いていました。2017年オフにフロリダ・マーリンズをFAとなって以降、4か月もの間所属球団が決まりませんでしたが、古巣であるシアトル・マリナーズに拾われる格好で2018年も現役生活を継続することができました。そうして2018年のシーズンに突入したのですが、打率も.205と振るわず、5月はじめにメジャーの40人枠を外れ、「会長付特別補佐」というポストに就任しました。チームに帯同し練習も一緒に行うが残り試合には出場しない、という少し理解しにくい内容のポジションでした。その時点で2019年の開幕試合を日本で行うことが決定しており、その2試合限定で出場できるがそれ以降のメジャー契約は白紙という契約が結ばれていたようです。丸1年実戦から離れ、今年の春先のオープン戦も25打数2安打、打率も.080でしたので、引退は時間の問題ではありました。アメリカよりも義理人情を重んじそうな日本であっても、プロ野球はビジネスですから高年俸がネックとなり大功労者がある日突然クビを言い渡されることは決して珍しい話ではありません。昨年5月の段階でクビになっていてもおかしくなかったのに、このような花道が用意されたのは球団が最大限に敬意を表したからに他なりません。東京ドームで行われた開幕2連戦は5打数0安打でついにバットから快音が聞かれることはなく、イチロー選手は静かにバットを置きました。晩年は寂しい成績でしたが、イチロー選手の残してきた輝かしい成績は何ら色あせることはありません。
 いまさら感もありますが、イチロー選手の偉大な足跡を振り返ってみたいと思います。
1992年愛工大名電高からドラフト4位でオリックス・ブルーウェーブに入団。高校生のときは投手でしたが、プロ野球には外野手としての素質が認められての入団でした。プロ入りしてすぐ2軍(ウエスタン・リーグ)の首位打者になり頭角を現すも、1軍では目立った結果を残せず当時の土井正三監督、山内一弘コーチからは打撃フォームの改造を命じられるなど、正当に評価されていたとは言えず、一軍の出場機会も2年間で36試合にとどまりました。その間、河村健一郎二軍打撃コーチと二人三脚で打撃フォームの確立につとめました。結果を残せていないときに一軍首脳陣からフォーム改造の命令があったら、迷いもあり言うことを聞いてしまう選手のほうが多いでしょう。短所を直すより長所を伸ばすという指導方針の河村コーチが盾になったこともありますが、そもそもイチロー選手には自分が正しいと思うことは他人から異を唱えられようと気にせず貫くことができる、つまり強い信念がありぶれないという姿勢をわずか20歳そこそこで備えていたことに、常人にはない凄さを感じます。
 1994年に就任した仰木彬監督、新井宏昌コーチのもとでその才能は一気に開花し、当時の日本プロ野球記録である年間210本安打を打ち首位打者に輝くと、その年から2000年まで7年連続で首位打者を獲得しました。そして、2001年にポスティング制度(入札制度)でシアトル・マリナーズに移籍しました。
 古くは元南海の村上雅則、元近鉄の野茂英雄、元千葉ロッテの伊良部秀輝、近年では、元広島の黒田博樹、現巨人の上原浩治、元中日の川上憲伸、元北海道日本ハムのダルビッシュ有、元楽天の田中将大、元広島の前田健太、元北海道日本ハムの大谷翔平、元埼玉西武の菊池雄星などなど。海を渡りその後メジャーで活躍した(ている)投手は枚挙に暇がありませんが、野手としてはじめてメジャーに渡ったイチロー選手は文字通りパイオニアです。180cm 77kgという決して恵まれない躯幹で、現地のメディア、ファンはいくら日本のスーパースターとは言え、メジャーで通用するわけがない、と酷評していました。ところが、移籍初年度からいきなり打率.350で首位打者となり、新人王とアメリカン・リーグのMVPに輝きました。その後2004年にはシーズン最多安打262本という前人未到の大記録を達成しました。2001年から10年連続シーズン200本安打という比類なき大記録を打ち立てました。彼が最も脂がのっていて輝かしい記録を残した時代は2001年から2012年途中までのシアトル・マリナーズに在籍していたころでした。彼の大成功があり、松井秀喜、松井稼頭央、井口資仁、福留孝介、青木宣親などがその背中を追うようにメジャーに挑戦したのは当然の流れでした。
 2004年以降、マリナーズは低迷を続けるのですが、チームの成績が振るわなくなると、チームプレーに徹さず自己の成績のみを追及している、チームへの貢献度以上の高額年俸を得ているといって地元紙を中心にバッシングが強まります。同時期に同じチームメートとして活躍した佐々木主浩(元横浜)のように気さくに周囲とコミュニケーションをとる人種ではなく、ストイックに野球一筋に打ち込み、他のチームメイトともあまり交わらないこともあり、チーム内でも孤立している、といった報道がなされたこともありました。そしてやがて彼はチームメートやマスコミに対して感情を出すことを封印するようになっていきます。そして、イチロー選手は自らの意思でトレードを志願し、2012年シーズン途中に名門のニューヨーク・ヤンキースに移籍しました。
 ヤンキース、そしてその後のフロリダ・マーリンズの5年半の間は、それまでのレギュラーが保証される立場と異なり、控え選手として扱われ、いつクビを言い渡されてもおかしくない日々。メンタル面で相当追い込まれた日々だったことでしょう。当時のインタビューで彼は「いろんな経験をしてきて、いつか自分の支えになっていく経験はあると思いますが、もちろんその中に加わる時間だったと思いますね。自分の支えになる時間だった。今後、僕を支える時間だと思います。なかなかこれ以上はない、という時間かな」と語っています。
そういった挫折を経験して、イチロー選手は一回りも二回りも人間的に大きくなり、平たく言うととても丸くなった印象を持ちました。2006年、2009年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)でキャプテンシーを発揮してチームの連覇に貢献した経験も大きかったと思います。
 先日の引退記者会見でも、「最初のマリナーズ時代には孤独を感じながらプレーしている、と(イチロー選手が)話していましたが、その孤独感はずっと感じながらプレーしていたのでしょうか」いう質問に対して、イチロー選手は「(引退を決めた)今日の段階でそれ(孤独感)は全くないです。」と断言していました。野球に真剣に打ち込むあまり孤高の人というオーラを纏い、すごい成績を上げ続けてレジェンドになってしまい、チームメートから遠いところに行き過ぎたカリスマが、最後皆とようやく距離を縮めることができたのだと思いました。
 最後に、イチローを師と慕い、敬愛してやまなかったディー・ゴードン選手(マリナーズ)がシアトル・タイムズに載せた全面広告の全文を掲載して、この項を終えたいと思います。いかにイチロー選手が愛されていたかがおわかりいただけるかと思います。
今回4月5週目に特別にこの機会を与えてくださった柴田先生に感謝申し上げます。
改めまして一年間おつきあいくださいましてありがとうございました。