クリストファー・ロビンの王国 執筆者:水野美和子

まだ肌寒い4月の朝、私は井の頭公園近くのカフェに入った。

薄暗い店内を見渡すと、隅のテーブルで、もう空になってしまったお皿を見つめて、ほおづえをついている彼の姿があった。甘いもの好きの食いしん坊だから、もしかすると、ケーキをもう一皿、注文しようかな、と悩んでいるのかもしれない。彼はゆっくりと顔を上げてこちらを見た。

 

「おはよう、美和子さん」

「ごめんね!遅くなって」

 

彼はこくりと頷いた。軽くて小さな身体の割に、どっしりと落ち着いた構えで、飄々としていて、今にも鼻歌を歌いだしそうな雰囲気は相変わらずだ。お待たせして申し訳なかったのだけれど、そういえば彼は「なにもしないでいること」も、わりと好きだったっけ。

彼とは長い付き合いだ。子供の頃はしょっちゅう会っていた。

最近は、あまり会わなくなってしまったけれども、会えば日常の緊張がほぐれていくし、マイペースな彼の態度から学べることが沢山ある。

私もお茶とケーキを注文してから、ついつい、最近の出来事を話しはじめようとしてふと、彼に私の仕事の話をしても、どのみち細かいニュアンスを理解してもらえないことを思い出した。

彼が、正しく理解できる事柄というものは、子供時代独特の、明るくてはっきりした関係や感情ばかりなのだから。

 

そこで、本題に入ることにして、私はカバンから本を二冊取り出した。

一冊は日にやけてこげ茶色になってしまった、古い岩波少年文庫版『クマのプーさん』で、もう一冊は原書の『Winnie-the-Pooh』だ。


「今度、この二冊をゆっくり読み比べるブログを始めたいと思っているの」

「こっちは、ずいぶん古いものですね」

 

「子供の頃に買ってもらったの。はじめはがっかりしたのを覚えている。」

「どうしてです?」 彼は、ちょっと悲しそうに言った。

「友達の家で、ディズニーアニメの絵本を読んでいたから…」

 

それは2つ年上の女の子で、ひろこちゃんと言った。

ひろこちゃんは、沢山のおもちゃだけではなく、沢山のディズニー絵本を持っていた。

『プー』の他にも、『白雪姫』、『シンデレラ』、『アリス』、『ピーターパン』、『わんわん物語』、『101匹』、『アーサー王物語』等が並んでいる本棚が、とても羨ましくてしょうがなかった。

色が鮮やかで、輪郭がくっきりしていて、今にも動き出しそうなディズニーの絵は、何よりも素敵なものに思えた。

ディズニーのプーは赤い上着を着て、ハチミツに囲まれて、うっとり幸せそうな顔をしていた。

 

「だから、こんなの『プー』じゃない!と父に文句を言ったの。もちろん、シェパードの挿絵のプーの方に、ずっと味があるってことは、今ならちゃんとわかるのだけれどね。

そうしたら父が、『これこそが、本物のプーなのだ』って熱く語るのよ。『本物』とは一体全体、何のことなのだろうかと、子供なりに一生懸命考えたよね…。」

 

彼は短い前足をのばして、もう一冊の本の表紙に触れた。

 

「こっちは同じ絵柄だけど、きれいな色の絵ですね。」

「これは挿絵のシェパード自身が、後になって自分の絵に色を付けたもので、挿絵の数も多くて、パラパラとめくっていくだけでも楽しいでしょ?

石井桃子訳と原書を比較してゆっくり読み比べてみたかったんだよね…」

 

いつもの鷹揚さで彼は、細かいことはよくわからないけれど、やってみたら良いのじゃないかと言いました。

 

 

というようなわけで、やってみました。

 

      *      *      *      *      *

 

【1章:わたしたちが、クマのプーやミツバチとお友達になり、さて、お話ははじまります/Chapter One in which we are introduced to Winnie-the-Pooh and some Bees, and the stories begin】

 

あらすじ:

・ぬいぐるみのクマのプーがクリストファー・ロビンという男の子に連れられて登場し、

・語り手であるクリストファー・ロビンのお父さんが、「プーのお話」をする。

・森の中に住むプーは、高い木の上にあるハチミツを食べたくて、木に登ったり、親友のクリストファー・ロビンの助けを借りて、空飛ぶ青い風船につかまって雨雲のふりをします。

 

■「どんどん」のすばらしさ

 

ハチの羽音を聞きつけたプーさんが、ハチミツをもとめて高い木に登る場面です。

 

原文:

He climbed and he climbed and he climbed, and as he climbed he sang a little song to himself.

石井桃子訳:

プーは、どんどん、どんどん、のぼっていったが、のぼりながら、みじかい歌をうたった。

 

 

機械的直訳ならば、「彼は登ったそして彼は登ったそして彼は登った、そして彼は登りながら小さな歌をコッソリ歌った。」でしょうか。

それが「どんどん」を使うだけで、雰囲気が伝わりかつ、短い文で済むんですね!

 

■顔が赤くなる=get pinker

 

父親が話してくれる、プーが主人公のお話の中に、自分が登場したと知った時のクリストファー・ロビンの反応はこんな感じです。

 

石井桃子訳

クリストファー・ロビンは、なんにも言いませんでした。クリストファー・ロビンの目は、だんだん、だんだん、大きくなり、顔もだんだん、だんだん、赤くなってしまったんです。

 

原文

Christopher Robin said nothing, but his eyes got larger and larger, and his face got pinker and pinker.

 

 

日本語の「赤面する」が、英語では「ピンク顔になる」(?)に相当するんですね!

英語と日本語での「色の表現の違い方」を調べてみるのも面白そうです。

 

■ほんとのお話

 

物語の中では、プーばかりかクリストファー・ロビンも、大人顔負けの、深い発言をします。

 

石井桃子訳:

プーは、なんどでも(お話を)ききたがるんだよ。

お話してもらうときのは、ほんとのお話で、

ただおぼえてるのなんかと、ちがうんだもの。

 

原文:

So that’s why he likes having it told to him again.

Because then it’s a real story and not just a remembering

 

 

・・・と、クリストファー・ロビンは「プーが喜ぶから」、もっとお話をしてほしいと父親へお願いしているのですが、その少し前でも、面白いことを言っています。

 

 

原文:

‘I do remember, and then when I try to remember, I forget.

 

石井桃子訳:

「おぼえてるよ。だけど、ぼく、思い出そうとすると、忘れちゃうんだ。

 

 

子供が「お話してもらう」のは、大人が「読書する」のと似たような体験ですよね。

クリストファー・ロビンのこの言葉は、知識として記憶することと、読み進みながら感じる体験とは、また別のものだということを思い出させてくれます。

 

■Deceive=だます

 

ハチの巣のある高い木の上の方に行くために、クリストファーロビンの風船を借りることにしたプーは、風船の色を青にするか緑にするか、つまり、プーが雨雲のふりをするか木のふりをするか…に悩んだ末、黒い雨雲のふりをすると決めて、クリストファー・ロビンに伝えます。

 

原文:

‘I shall try to look like a small black cloud. That will deceive them.’

‘Then you had better have the blue balloon.’

 

石井桃子訳:

「ぼく、ちいさい黒雲になってみよう。そうすりゃ、やつら、だまされますよ。」

「じゃ、青い風船のほうがいいね」

 

 

初めて読んだ頃、のんびりとしたプーの物語に「だます」という言葉が登場したことに、ちょっとだけ違和感があったのを思い出しました。

でも、原文も、間違いなく“deceive” なんですよね。

 

■あたらなかった?=Did I miss?

 

ハチミツを求めて、クリストファー・ロビンに膨らましてもらった風船にぶら下がって、ふわふわと浮上していったプーですが、やがて地上へ降りたくなって、クリストファー・ロビンに風船を銃で撃つようにお願いします。

せっかくの風船をだめにしたくなかったのですが、このままだとプーがだめになると聞かされて、仕方なくクリストファー・ロビンは風船を狙って撃ちました。

 

石井桃子訳:

「あ、いたッ!」と、プーが言ったから、「あたらなかった?」ときくと、

「ぜんぜん、あたらなかったわけじゃないけど……風船にはあたらなかった。」

 

原文:

‘Ow!’said Pooh.

Did I miss?’ you asked.  (このYouは、クリストファー・ロビンのこと。語り手が、クリストファー・ロビンに話しかける形で、プーの物語を語っているため。)

‘You didn’t exactly miss,’ said Pooh, ‘but you missed the balloon.’

 

 

日本語で読んでいた時は、クリストファー・ロビンが誤ってプーを撃ったことに対して、「僕に当たったけれど、あんまり痛くないよ」とプーが気づかっているのだと思っていました。

でも、Did I miss?を直訳すると、「僕は的を外したの?」になります。

これに続くプーの答えを直訳すると。「君は的を大きく外したわけじゃない(だって、僕には当たったからね)。だけど、風船には当たらなかったね。」と読めます。

原文のプーは、「クリストファー・ロビンの射撃の腕前は、そんなに悪くはないよ」と気づかっているように思えます。

 

 

今回のまとめ

 

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

こうして日英読み比べをしてみて改めてわかったのは、音の響きを大切にした石井桃子訳のすごさと、日英表現の違いの面白さです。

クリストファー・ロビンという男の子の不思議さも気になりましたが、それはまた次回に♪