書いてあることは正しい? 執筆者:流浪の会計士

 芥川龍之介の短編小説「西郷隆盛」(「蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ他17篇」所収、岩波文庫)は、記録の客観性・正確性をテーマにした面白い作品です。大学の史学科で維新史を研究している主人公の本間さんは、夜行列車の食堂車で居合わせた老紳士から、「どの史料にも西郷隆盛は城山の戦いで死んだと書いてあるが、どれも間違っている。実は、西郷は死んでおらず、今でも生きている。」という秘密を聞かされます。とても信じられない本間さんでしたが、老紳士の案内で車内にいる西郷を目撃し、すっかり混乱してしまいます。史料と自分の目のどちらを信じるか。実は、本間さんが見た男は、西郷によく似た老紳士の友人だったのです。この一連の出来事を通じて、老紳士は、「ある事実の記録をするには、自然と自分でディテールの取捨選択をしながら書いていくので、それだけで客観的な事実でなくなる。よって、歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料というのは存在しないから、史料の選択には十分注意しなければならない。」と本間さんに説くのです。
 この小説を読んだとき、イギリスの歴史家E.H.カーの講演「歴史とは何か」(清水幾太郎訳、岩波新書。原題は E. H. Carr, What is History? )の中に、これと似たようなことが書かれているのを思い出しました。カーは、「Ⅰ 歴史家と事実」の章で、歴史は、あらゆる過去の事実を収集して出来上がるのではなく、歴史家のテーマに沿って過去の事実が選択され、その事実を再構成することによって出来上がると述べています。また、ワイマール時代のドイツ外相が残した大量の文書を例にして、歴史家が研究対象とする文書は、作成者が起こったと考えていたことを語っているに過ぎないと言います。つまり、客観的な歴史というものはないし、残された文書が起きたことを正確に記録しているとは限らないというのです。
 私たちは普段から、新聞、本、雑誌などさまざまな記事を目にしますが、そこに書かれていることは正しい、とついつい思ってしまいがちです。でも、芥川やカーの例にあるように、その内容は筆者の主観に沿って選択されているので、客観的でないのは勿論のこと、必ずしも正確でないかもしれません。書かれていることを鵜呑みにせず、十分に吟味するとともに、いろいろな人の意見や考え方を参考にして、自分なりの理解や考えを持ちたいものです。
 それにしても、芥川とカーというジャンルの違う作品の間に類似点を見い出したときは、その意外さに思わず楽しくなってしまいました。