「一の絲」の世界 執筆者:工学博士 寅吉

 正月も2週目になり皆様には早や精勤の日々を過ごされていることと思いますが、今は(この原稿を書いているのは)未だ松の内なので暫し浮世を離れた話題にさせていただきます。

 正月ということもあり久しぶりに文楽協会のサイトをチェックしてみました。1月の公演は国立文楽劇場(大阪)で第1部が寿式三番叟、奥州安達原、本朝廿四孝の3本。第2部がお染・久松 染模様妹背門松となっています。因みに三番叟はご存知のように能に基づく縁起物で新春公演ではほぼ定番のようです。2月は国立劇場小劇場(東京)になり近松名作集ということで第1部が平家女護島と曾根崎心中、第2部が冥途の飛脚になっています。文楽協会のサイトは充実していて全ての項目にきちんと英訳が付いています(長唄教会のサイトはお粗末)。例えば、文楽の歴史は次のように書かれています。
(日本語)
人形浄瑠璃文楽は、日本を代表する伝統芸能の一つで、太夫・三味線・人形が一体となった総合芸術です。その成立ちは江戸時代初期にさかのぼり、古くはあやつり人形、そののち人形浄瑠璃と呼ばれています。竹本義太夫の義太夫節と近松門左衛門の作品により、人形浄瑠璃は大人気を得て全盛期を迎え、竹本座が創設されました。この後豊竹座をはじめいくつかの人形浄瑠璃座が盛衰を繰り返し、幕末、淡路の上村文楽軒が大阪ではじめた一座が最も有力で中心的な存在となり、やがて「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞となり今日に至っています。
(英語)
Bunraku is one of Japan’s representative traditional performing arts, designated a World Intangible Heritage by UNESCO in 2003.  It is a closely collaborative form which synchronizes narrative recitation, shamisen music and puppetry in performance.  The origins of present-day bunraku date back to the seventeenth century, when older puppet shows (ayatsuri ningyo) were integrated with the medieval narratives (joruri) and called ningyo joruri, “puppet narrative.”  Its popularity peaked with the works of playwright Chikamatsu Monzaemon and narrator Takemoto Gidayu, and the founding of Takemoto Theatre in Osaka in 1684 ushered in a in a golden age.  The Toyotake Theatre and others later joined the field.  They had varying success until in the mid-nineteenth century a native of Awaji named Uemura Bunrakuken opened a theatre which became the toast of Osaka.  His dominance was such that his name became synonymous with the art form, which we still call bunraku today.

太夫、三味線、人形等もそれぞれ丁寧に解説されています。興味のある方はサイトをご覧になってください。
 上記の公演ですが、番組としては2月の方が興味あるのですが、もし行くのであれば国立文楽劇場の方に行きたい気がします。先ずもって私は国立劇場という所が嫌いです。あの立地は電車に乗って歩いてくる人のことを考えていない。車で乗り付ける人にとってのみ便利なように出来ている。如何にもという感じで気に入らないです。
 それは別としても国立文楽劇場には一度行ってみたいと思っています。遥か昔のことになりますが、関西にいた私はよく文楽を観にいきました。当時は未だ国立文楽劇場は出来ていなくて道頓堀の朝日座で公演されていました。難波から戎橋筋を抜けて道頓堀沿いに歩いていくと角座、中座などが立ち並ぶ一番奥に朝日座がありました。劇場というより小屋という感じでチケットを買って中に入ると、ハイ、ばんづけーと威勢のいい声でパンフレットを売っていました。このパンフレットは解説が充実していて床本も付いていたので買うのがちょっとした楽しみでした。その横に売店があって弁当などを売っていました。冷房の効きがあまりよくなく夏場などは扇子で煽ぎながら観ている人がよくいました。多分音響なども最近の劇場に比べると悪かったでしょうがそんなことは全く感じさせない演奏でした。
 当時、太夫は竹本津太夫、越路太夫という二人の人間国宝がいました。三味線では津太夫の相三味線の鶴澤寛治(6代目)、竹本越路太夫の相三味線の野澤喜左衛門(2代目)、竹本綱大夫の相三味線をしていた竹澤弥七、および野澤松之輔の4人の人間国宝がいました。津太夫は豪快という形容がぴったりの太いよく通る声で迫力ある語り口でした。対照的に越路太夫は繊細できめ細やかな語り口で世話物が得意でした。同様に三味線も寛治は時にバンバンと打ち鳴らす豪快な撥捌きなのに対し、喜左衛門は見るからに繊細で少々神経質な感じにも見えましたが非常に折り目正しい演奏の印象でした。3年前に他界した竹本住大夫はこの頃は文字太夫と名乗っていて当時から深みのある唄い振りでした。現在人間国宝になられた鶴澤清治さんは気鋭の若手といった感じでした。人形遣いでは吉田玉男(初代)を初め何人かの人間国宝がいました。吉田蓑助さんが中堅のエースといった感じでした。
 上記の4人の三味線弾きは晩年の時期であり私が観劇するようになってから2~3年の間に皆亡くなりました。竹澤弥七は謎の失踪をして自殺しました。この人の舞台はあまり記憶にないのですがあるとき津太夫と組んで出演していたのを覚えています。気のせいかどこか枯れたような感じの印象でした。なお、岩波日本古典文学大系の文楽浄瑠璃集の解説は竹本綱大夫と竹澤弥七の二人がされていたと思います。野澤松之輔は沢山の作曲をしており、曽根崎心中もこの人が曲付けをしています。松之輔の舞台は何回も観ましたが不思議と三味線の音の印象がありません。いつもクールな表情で淡々と弾いていました。この人の何処が名人なのかなといつも疑問に思っていたのですが、没後ある新聞記事に「三味線を弾かずに太夫を弾く、真の三味線弾きでした」と書かれているのを見てああそういうことだったのかと合点がいきました。三味線は表に出ずに太夫を存分に唄わせる、この芸が出来るのは本当の名人だろうと思います。亡くなる数日前にこの人の最後の舞台を観たのを覚えています。いつもの様に淡々と弾いていました。
 最初の頃は津太夫の唄に圧倒されました。腹の中まで響いてくるような豊かな声量で将に聞き惚れていました。一方、越路太夫の方は中々良さがわかりませんでした。聴いていても全然心に響いてこないな。どこがいいのかなと思っていました。ところが観劇を続けている内に段々その唄に魅かれていきました。どう形容していいかわかりませんが聴いた後でジーンと残るものがあるのです。そうなってくると今度は越路太夫の語る演目がとても楽しみになりました。対照的に津太夫の語りがつまらなくなってきました。どこか底が浅いような気がしてきたのです(実際には勿論そんなことはありませんが)。これが芸の奥行というものかなとしみじみ思いました。
 そんな風に越路太夫の芸がわかりかけてきた頃にこの人の語る艶容女舞衣の酒屋の段を観ました。大和五条の茜染め、今色上げし艶姿・・・等々の名台詞で有名な三勝・半七の心中物です。三味線は勿論野澤喜左衛門です。細部はすっかり忘れてしまいましたが何ともいえない感動に打たれたことを覚えています。女心のせつなさ、どうしようもないジレンマの中での男の苦悩といったものがじっと伝わってくる心境だったと思います。人形遣いは忘れてしまいましたが立はおそらく玉男だったでしょう。越路太夫自身もこの時は好調だったようで新聞の劇評欄に「越路、入神の語り口」といった見出しが載っていたのを覚えています。この越路―喜左衛門の酒屋は私が一生の間に観る文楽の中でおそらく最高のものであるだろうと思います。
 その後私は結婚し仕事も忙しくなって文楽を観ることもなくなりました。朝日座は取り壊されて少し離れた場所に国立文楽劇場が出来ました。なので私は国立文楽劇場に行ったことはありません。
 夜の部が終わって外に出ると賑やかなミナミの夜でした。道頓堀から千日前の辺りを抜けていくとキャバレー、アルサロ、スナック、居酒屋などが立ち並びネオンがギラギラ輝いていました。戎橋筋の商店街は夜でも混んでいてうなぎを焼く臭いが漂う中で有線の演歌が流れていました。仇花のような高度成長が始まる頃でした。

 

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