タルチュフ 執筆者:工学博士 寅吉

 堅苦しい技術の話が続いて少々辟易というより読む気もしなかったかもしれません。私自身半分仕事の延長のような感じで些か興趣に欠ける面がありました。そこで閑話休題でもないですが趣向を変えて昨年柴田先生が翻訳されたモリエールのことを書いてみたいと思います。技術翻訳ネタももう少しありますが時折こういった話題も織り交ぜていきます。
 モリエールについてなどと勿体つけましたが固よりフランス語は全くわかりません。また畑違いの文芸批評などできよう筈もありません。さらにはこれまでモリエールを読んだことはほとんどありません(遠い昔に守銭奴を読んだことがあるような気がしますが内容は覚えていません)。そういうわけで全くの素人の勝手な感想ということでご容赦いただきたく思います。
 ご存知のように昨年出版された本には女房学校、スカパンの悪だくみ、守銭奴、タルチュフの4作品が載っています。これを一か月で仕上げたということに先ず驚嘆します。読んでみて一番面白かったのはタルチュフでした。何というか他の3作品とは違う独特の凄味のようなものを感じました。この感覚は何処から来るのか。先ず思うのは他の3作品には根っからの悪人はでてこない。分からず屋だったりずるかったりする輩は出てくるが心底からは憎めない、何処かに救いがある感じです。対してタルチュフは徹頭徹尾悪人です。その強欲さ、卑劣さぶりは読んでいて憎らしくなる程ですがそれだけ描写が巧みということでしょう。どこか最近話題の然る都知事を思い出させもしますが勿論描かれているのはそんなチンケな小悪党ではありません。ルイ14世時代の社会の痛烈な風刺と言われているようですが、余程作者を突き動かすものがあったのだろうと推察します。
 そういうわけで少し興が湧いてきたので鈴木力衛訳(岩波文庫)タルチュフと読み比べてみました。これは「岩波文庫の100冊の本」にも入っていたものでとりあえず定訳かなと考えたものです。当然柴田先生もこれを意識された様子で前書きで言及されています。鈴木訳は読み物としてはよいが芝居の台本としてはスピード感に欠ける。今回の翻訳では読み物と台本の両立を図った。タルチュフの原文は韻文で書かれているが翻訳も極力これに合わせた。因って訳としては少し硬めで幾分読みにくい面があるかもしれない。という趣旨のことを述べておられます。このことを念頭において読み比べました。優劣比較は難しいですがとりあえず違いは感じました。参考までに何箇所か対比して示します。紙面の都合で第一幕の第一場(鈴木訳では第一景)に限ります。なお、鈴木訳については比較のために文の切れ目で改行しましたが元々は改行されていません。(今回の翻訳に際して先生は鈴木訳以外に秋山伸子訳および英訳2種を参照されたと前書きで述べておられます。また、前書きという言葉は用いずに「新訳にあたって」等の見出しを付けておられますが、ここでは便宜上前書きとしました。)

(鈴木訳)
ペルネル夫人
こう言っちゃ悪いかもしれないがね、お嫁さんや、
あんたときたら、することなすこと、なっちゃいないよ。
あんたはみんなにしめしをつけなきゃならん、というのにさ。
死んだ嫁のほうが、よっぽどしっかりしてましたよ。・・・・・・・・・・
(柴田訳)
ペルネル夫人
お嫁さんや、こう言ったら気に入るまいが、
あらゆる点でアンタの振る舞いは最悪だ。
アンタは子供たちに模範を示さねばならないはずだろ、
この子たちの死んだ母親はその点よいお手本だった。・・・・・・・・・・

(鈴木訳)
ペルネル夫人
・・・・・・・・・・
しかし、かりにもし、わたしが倅だったら、つまり嫁のつれあいだったら、
この家へは絶対に出入りしないよう、とっくりお願いするだろうと思いますよ。
(柴田訳)
ペルネル夫人
・・・・・・・・・・
といっても、もし私が貴方の妹の夫である私の息子の立場だったら
わが家へは絶対立ち入らないように強くお願いするはずさ。・・・・・・・・・・

(鈴木訳)
ドリーヌ
あの人の言うことをきいて、そのとおりにしていたら、
ろくなことはできやしませんわ。
あののぼせあがったおせっかいやきときたら、なにかにつけてああしろだの、こうしろだの、ほんとに口うるさいんですからねえ。
(柴田訳)
ドリーヌ
あの方の言うことを聞いて、あの方の教えをまともに信じろというなら、
私たちは罪を犯さずに何事もできなくなってしまいます。
なにしろあの御大層な批評家は全てを仕切るのですから。

(鈴木訳)
ドリーヌ
・・・・・・・・・・
ころがりこんできたときにゃ、靴もはかず、
二束三文のぼろをきた乞食同然。
それが身のほどもわきまえず、
何かにつけて文句を言い、主人風を吹かすようになろうとは。
(柴田訳)
ドリーヌ
・・・・・・・・・・
やって来たときは短靴もはいてなかった乞食が、
それも全部あわせて六デニエにしかならない服をまとっていた乞食が
自分の身分を正しくわきまえず
全ての人を不愉快にさせ主人顔するのを見るようになるなんて。

(鈴木訳)
クレアント
言いたいやつには、勝手なことを言わせておけばいいんです。
ろくでもないうわさを立てられるからといって、
仲のよい友だちとのつきあいをやめるわけには行きませんからね。
かりにもし、そうする決心をしたところで、
世間の人の口を封じることができるもんでしょうか?
悪口をふせぐとりではありませんよ。
ばかげたうわさ話はあっさり聞き流すことですね。
省みてやましくない生活をするよう心がけ、
おしゃべり連中には勝手にしゃべらせておけばいいじゃありませんか。

(柴田訳)

クレアント
ああ、奥様、人がおしゃべりするのを妨げたいとお思いですか。
人生は実につまらないものになってしまいますよ、
無用な噂が立つから
すばらしい友人づきあいをあきらめるとしたら。
それに、万一をやめたところで、
世間に黙るよう指図できると思いますか。
人は中傷に対しては守る盾を持たないのです。
ですから愚かな饒舌に対して如何なる対策も講じてはなりません。
自分がきちんとしていればよいのです。
うわさ好きな人のことはまったくの我儘かってにしておきましょう。

(鈴木訳)
ドリーヌ
・・・・・・・・・・
こうした賢婦人たちの手きびしさときたら、
どんなものにもケチをつけ、なにひとつ容赦せず、
お高くとまって、ひとりひとりの暮らしぶりをお咎めになる。
それも慈悲心からじゃなく、妬ましくてたまらないからで。
寄る年波で、体がいうことをきかず、そうなると、ほかの女がよろしくやっているのがどうにも我慢できないんですわ。
(柴田訳)
ドリーヌ
・・・・・・・・・・
こうして生まれた徳のある女たちの厳格さは
全てのものを罰し、何物をも許しません。
高所からこの女たちは一人びとりの生活を非難します
いささかも思いやりからではなく、妬みの感情で以て。
そして他人があの喜びをもつことを絶対に許しません
そう、年を重ねたため自分に失われてしまった異性との愛の喜びを。

(鈴木訳)
ペルネル夫人
・・・・・・・・・・
(フリポットに平手打ちを食わせ)
さあ、さあ、おまえ、なにをぼんやりしてるんだよ、ポカンと口をあけてさ!
しようのない人だねえ! いまに痛い目にあわせますよ。
さあさ、歩いた、歩いた。
(柴田訳)
ペルネル夫人
・・・・・・・・・・
(フリポットに平手打ちを食わせる)
さあ行くよ。いつもぼんやりして。ぽかんと口をあけて空ばかり見ていて。
バカな娘だね。耳を引っぱられないようにおし。
ほら行きな、バカ娘、行きな。

 一読して鈴木訳は読みやすくこなれた感じがします。柴田訳は確かに少し硬い感じですがその分リズムを感じます。程よい硬さで台詞として聴いた時に切れ味よく響いてくるという訳にするのは大変難しいと思いますが、それを見事に感じさせる箇所がありました。枠で囲んだクレアントの台詞です。テンポよく文体も自然で秀逸と思います。ここでは鈴木訳の方がぎくしゃくしている感じです。一方、下線を付してあるドリーヌの台詞の箇所は少し硬すぎでやや重ったるい感じがします。お嬢さんの台詞でもあるしもう少し軽快な感じでもよかったのではないかなという気がしました。例えば、「高所から」というのは漢字を見れば意味は直ぐわかりますが、芝居の台詞で言われた場合イメージがすぐに湧くかな?と思いました。また下線を付けたペルネル夫人の台詞は一見ごちゃごちゃしているように見えますが、この芝居がコメディ仕立てであることから此処は役者が言い回しの妙を発揮するところか。だとすれば敢えてこういう訳にしたのかなと思いました。鈴木訳にはその要素はなく専ら読みやすさが重視されている感じです。
 他にも色々と興味深い点がありました。例えば、この箇所は鈴木訳とどう違っているかなと思って照合してみるとあっさり同じだったりして、それはそれで面白い気がしました。また、今回先生は4種類の既訳を参照されたとのことですが、全くのプレーンの状態で純粋に先生の個性で翻訳されたらどうであったろう。また別の味わい深いものになっていたのではないだろうか。というようなことも頭を過りました。いずれにしろ、鑑賞という意味では訳本を読むだけでは片手落ちで上演されたものを是非観たいところです。ただ、お芝居となると役者の演技で全体の印象が左右されるので、純粋に台詞を味わう上では私は朗読劇がよいのではないかと思います。朗読による訳の比較等が行われれば大変興味深く思います。

 今回は文字通りフリーに書かせていただきました。フランス語は露わからないながらも高等翻訳術を垣間見た気がします。上級者の方には参考になる点が多々あると思います。是非一読されることをお勧めします。

 

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