言葉の奥にあるもの 執筆者:綾 仁美(アプリシエイタ-)

皆さま、初めまして。今年度、リレーブログの第4週目を担当させて頂くことになりました。どうぞよろしくお願い致します。
私はもともと出版翻訳者志望で、4年前に英文教室の門を叩きました。
その後、翻訳会社でスタッフとして働きながら勉強を続けてきたのですが、今年になって出版翻訳の分野で下訳を担当するという幸運に恵まれ、ただ今絶賛作業中です。
色々な側面から翻訳に関わらせて頂けてとても嬉しく、責任を持って仕事をしていますが、自分の未熟さを痛感する日々でもあります。ブログを担当される他の方々のように「私は○○です」と自信を持って言える肩書はまだありません。
プロの視点からブログを書くことはできないので、「日々の生活の中で感じたこと」を翻訳や英語と絡めてお伝えできればと思います。
雑多な内容になるかもしれませんが、よろしければお付き合い下さい。

さて、初回のブログの題材を何にしようかと思っていた頃、『イニシュマン島のビリー』というお芝居を観ました(マーティン・マクドナー作、森 新太郎演出)。1934年のアイルランドを舞台に「言葉の奥にある感情をきちんと捉えられているのか」という問いを投げかけているような作品で、非常に考えさせられたので、ご紹介したいと思います。

この舞台、場面が転換すると同時に色々なものが「入れ替わる」のです。

邦題は『イニシュマン島のビリー』ですが、原題を“The Cripple of Inishmaan”というこの作品。主人公のビリーは、右の手足が不自由な青年で、近所の人たちからいつも“Cripple Billy”(日本語訳は「びっこのビリー」)と呼ばれています。
“Cripple”(「びっこ」)という言葉は、辞書では“Person who is unable to walk or move properly through disability”と定義されていますが、その言葉を使ってからかわれ、傷つく人も多かったのでしょう。今では差別的な言葉と考えられています。そんな言葉が連呼されるという、今では考えられない状況がしばらく続きます。

ですが、この“Cripple Billy”という呼び名が、決して差別意識からきているものではないことが、舞台が進むにつれて分かってきます。
登場人物たちはビリーに対してひどい口のきき方をしますが、何かあるとビリーの元にやって来ていて、決して島の一員と認めていないわけではないのです。
障害を特別視せず、ビリーの一部として受け入れているように見えました。

差別的ともとれる言葉の意味合いが変わったところで、皆が信じて疑わなかったビリーのある言葉が「嘘」だったことが明らかになります。
ビリーは他の登場人物と違い、乱暴な言葉遣いではありません。それでも私は、彼がついた嘘が一番残酷で悲しいと感じました。

傷つける人/傷つけられる人、嘘/本当、虚構/現実、こういったものがくるくると入れ替わってゆくと、だんだん、自分が信じていることに自信がなくなってゆきます。「私が今感じていることは正しいのかな」と。

「本当」とは何なのか、考え込んだまま公演のパンフレットを読んでいると、三神弘子氏(早稲田大学教授)が次のように語っていらっしゃいました。

「ただ、道徳的、倫理的価値観に着地し、その視点でのみマクドナーの作品を見ようとすると、その本質から遠く離れてしまう」

翻訳は異なる文化を繋ぐものだと思っていても、ついつい自分の価値観の中で英文を読み、セリフを考えてしまう自分に気付かされ、身の引き締まる思いでした。

先入観を持たず、全てを受け入れるまっさらな気持ちでいること。文化的な背景や、人物の関係性も知ったうえで言葉と向き合うこと。
とても難しいことですが、言葉の奥にあるものをきちんと見つけられるように、翻訳をするうえではいつも忘れずにいたいと思います。

と、ここまで書いて、初回のブログがきちんと書けたことにほっとしました!
来月も、周囲のできごとにアンテナを張りめぐらせながら内容を考えたいと思います。それでは。

 

柴田耕太郎「英文教室」HPはこちら