AIと翻訳の等価性  執筆者:川月現大(編集者)


 人工知能(AI)とは何か? 人工知能学会の解説ページ( 人工知能のやさしい説明「What’s AI」)によれば、AIとは「知能のある機械」のことである。さらにAIには、人間並みの高度な知能を持つ「強いAI」と人間の知的な活動の一部と同じようなことをする「弱いAI」とがあるという。さしずめ「強いAI」は「ヒトモドキ」、「弱いAI」は「ヒトタラズ」とでも言えるだろうか。
 最近、電車の吊り広告などで「AI(人工知能)に職を奪われる!」などの見出しをよく目にするが、この場合のAIは「弱いAI」のことだ。AI関連の記事でよく目にする「機械学習」や「ディープラーニング」も弱いAIに属する。
 弱いAIが人間の知的な活動を代行するようになれば、会計処理や申告書のチェックをするようなホワイトカラーの労働者でさえ別の仕事をしなければならなくなる。そもそも弱いAIが登場しなくても、さほど難しくない作業をもたもたやっていたら、もっと上手に作業をやってのけるほかの誰かに蹴落とされてしまうだろう。結局のところAI問題というのは、“誰か”がAIを使って仕事をしているのだから、仕事の果実を誰が得るのかという問題にすぎない。
 やがてAIを使った製品は、私たちの身のまわりにあふれかえる。家庭内にある電化製品や自動車にはICチップが多数使われているが、これが“AIチップ”に置き換えられるのだ。もはやそれは「人工知能」などという大げさなものではなく「環境」の一部だ。生活環境の一部と言い換えてもいい。何か刺激(信号)を与えれば応答する機械。太陽光線を浴びて光合成する植物と原理的には同じだ。
 機械翻訳もAIの応用分野のひとつだが、「機械翻訳なんて…」とその実用性に疑問を抱く人は多い。だが、いまやヒトタラズ程度のAIが小説を書いてしまうような時代だ。GoogleでAI開発の指揮を執るレイ・カーツワイルの仮説(シンギュラリティ:技術的特異点)では、AIがヒトを超えるのは2045年だという。その頃には機械翻訳の水準もある一定のレベルには達しているだろう。

人工知能は小説を書けるのか ~人とAIによる共同創作の現在と展望(PC Watch)
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/20160322_749364.html

 翻訳分野では「翻訳の等価性」が大事だと言われる。ここでの等価性とは「原文の意味と訳文の意味が同じ」ということで、特に目新しい概念ではない。むしろ古い考え方だと言える。原文の「文字情報」を意味を変えずに、違う言語の「文字情報」に移植する。そういう考え方だ。これは「語彙・文法レベルの等価性」しか達成していない。
 等価性には複数の種類を想定できる。たとえば、末田清子と福田浩子の『コミュニケーション学──その展望と視点[増補版]』では5つの等価性を挙げている。

  1. 語彙の等価性
  2. 慣用句の等価性
  3. 文法的等価性
  4. 経験的・文化的等価性
  5. 概念の等価性

 それぞれ日本語と英語を例に説明すると次のようになる。
 「語彙の等価性」は、同じモノを指す語が日英語に存在するかということで、「book=本」というペアがあれば等価となる。一方、「硯(すずり)」や「座敷童」は英語圏には存在しないため、それらを表す語も存在しない。
 「慣用句の等価性」の場合、日本語の「猫に小判」には同義の慣用句「cast pearls before swine(豚に真珠)」があり等価。だが「障子に目あり」と等価な英語の慣用句は存在しない。
 「文法的等価性」は、日本語で進行中を表す「〜ている」は英語の進行形で表現できるので等価。だが、英語の現在完了形という文法形式は日本語には存在しない。同様に英語の過去形も日本語文法には存在しない。英文法で言う「過去形」は動詞の活用形であって「過去語形」と呼ぶべきものである。翻訳学校の講師でも、英文法のレンズで日本語を見る人は「過去形は過去形で訳す」あるいは「現在形は現在形で訳す」などと指導することがある。このような表層的な理解が誤りだということについてはさまざまな人が指摘しているので詳述しないが、岩坂彰さんのページがわかりやすい。

岩坂彰の部屋 第7回 日本語文法を考える
http://bit.ly/21K7eFj

 「経験的・文化的等価性」は、社会生活を送りながら経験するもの、つまり文化に関わるものである。たとえば赤道直下では「雪」は降らないため、「雪」という概念を理解してもらうのは困難だ。また、現地で暮らしてみないとわからない習慣・風習に関する記述については、何らかの補足説明が必要になる。
 「概念の等価性」では、対応する概念がある場合とない場合がある。「武士道」は対応する概念がない代表例である。対応する概念はあるが等価ではないものとして「神(God)」がある。宗派や民族だけでなく、メッセージの送り手と受け手でも意味するものは異なる。歴史的にも意味の変遷がある。詳細については、柳父章のhttp://amzn.to/1SapySZ『「ゴッド」は神か上帝か』をご覧頂きたい。

 ここまで5つの等価性について見てきたが、筆者としては6番目の等価性として「表現の等価性」(あるいは「感性の等価性」)を追加したい(この概念は河原清志(2012)でも「形式的等価」として言及されている)。

  6. 表現の等価性

 表現の等価性では、文章を読んで、人が感じる情感を表現できているかどうかが問題となる。特に文芸作品やエッセイでの話になるが、英語と日本語で同じ文章を読んで、読者の心の中に同じ感情が湧いてくるかどうかという問題である。同じ作家の作品を読んで、英語圏の人と日本人とで同じように感じるかどうか。それはテーマにもよるだろうが、「翻訳者」が行う「翻訳」というフィルタによって変質してしまうことも考えられる。
 機械翻訳つまり弱いAIが行う翻訳では、表現の等価性は担保されない。いつかAIのIQが100万ほどになれば、複雑に接続したAIチップの振る舞いにも量子力学的揺らぎが発生し、人間らしい振る舞いをするようになるかもしれない。しかしAIが人間の情緒や感性を理解し、ルール(推論規則)のレベルまで解析できるかどうかはわからない。なにしろAIにとって人間は、自らとは別種のイキモノであり、彼らにとっては宇宙人と対面しているようなものだからだ。
 600万以上の宇宙言語を操る通訳ロボットC-3POに会える日はまだまだ先のようである。



【参考文献】
●人工知能学会の解説ページ:知能のやさしい説明「What’s AI」
http://www.ai-gakkai.or.jp/whatsai/
●「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」のホームページ
http://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/
●「人狼知能プロジェクト」のホームページ
http://aiwolf.org/
●末田清子・福田浩子(2011)『コミュニケーション学──その展望と視点[増補版]』松柏社
●滝浦真人・大橋理枝(2015)『日本語とコミュニケーション』放送大学教育振興会
●河原清志(2012)翻訳シフト論の新展開への試論,麗沢学際ジャーナル,20(1), 69-78, 2012, 麗澤大学経済学会
●柳父 章(2001)『「ゴッド」は神か上帝か』岩波現代文庫

 

柴田耕太郎「英文教室」HPはこちら